陸渾

二十四年、先主為漢中王、拝(関)羽為前將軍、假節鉞。是歳、羽率衆攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋、大霖雨、漢水汎溢、禁所督七軍皆沒。禁降羽、羽又斬將軍龐悳。梁・郟・陸渾群盜或遙受羽印號、為之支黨、羽威震華夏曹公議徙許都以避其鋭、司馬宣王・蔣濟以為關羽得志、孫權必不願也。可遣人勸權躡其後、許割江南以封權、則樊圍自解。曹公從之。
(『三国志関羽伝)

梁はおそらく河南尹、郟は潁川郡の県だろう。河南尹の洛陽と潁川郡の許を繋ぐところに、関羽は反曹操の勢力をバラ撒いたということだ。


もう一つの陸渾についてだが、人名・・・では無い。*1

陸渾は弘農郡にある県。函谷関の西側にある。
関羽は関中にまで手を伸ばしていたのだ。


これらは関羽劉備の威名と言う要素もあっただろうが、どちらかと言うとそれぞれの地において曹操の支配が行き届いていなかったという部分の方が大きいのではないかと思う。
三国志』胡昭伝によれば陸渾県では領民が漢中への軍役に苦しんだという話がある。
長安、洛陽、許という当時の要地を結ぶ線上にある土地でさえ、曹操の支配はたやすく反乱を呼び起こすものだったのだ。
(それどころか、許県で吉本らが反乱し、曹操の腹心王必が死んだのは建安二十三年。線上どころか、許県そのものも不安定だったと言うべきか。)


曹操が許県から都を移そうと考えたのも無理からぬところだ。
確かに弱腰だが、当時の状況では許県周辺はもはや敵地同然だったのかもしれない。