さかのぼり前漢情勢35

一週間ぶりですhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100411/1270958988の続き。

漢の文帝は呂氏が打倒された後、その呂氏打倒に大きく寄与した斉王を押しのける格好で即位した。
文帝自身は呂氏打倒には全くといっていいほど寄与しておらず、この即位はつまるところ陳平・周勃といった呂氏打倒を計画実行した功臣たちの意向であった。
つまりは傀儡なのである。

だが陳平たちにも予想外だったのは、文帝が大人しく傀儡をやっているタマではなかったことである。

居頃之、孝文皇帝既益明習國家事、朝而問右丞相勃曰「天下一歲決獄幾何?」勃謝曰「不知。」問「天下一歲錢穀出入幾何?」勃又謝不知、汗出沾背、愧不能對。於是上亦問左丞相平。平曰「有主者。」上曰「主者謂誰?」平曰「陛下即問決獄、責廷尉。問錢穀、責治粟內史。」上曰「苟各有主者、而君所主者何事也?」平謝曰「主臣!陛下不知其駑下、使待罪宰相。宰相者、上佐天子理陰陽、順四時、下育萬物之宜、外鎮撫四夷諸侯、內親附百姓、使卿大夫各得任其職焉。」孝文帝乃稱善。右丞相大慙、出而讓陳平曰「君獨不素教我對!」陳平笑曰「君居其位、不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數、君欲彊對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之、絳侯謝病請免相、陳平專為一丞相。
(『史記』陳丞相世家)

このエピソードは、陳平の答えがなかったら文帝が右丞相周勃をどうしたのだろうかと言う点で興味深い。
本来の丞相の仕事であるとか、こういった場面での受け答えであるとかはおそらく不得手であったと思われる周勃を、文帝は狙ったのだ。
陳平の答えがなかったら、文帝は周勃に丞相失格の烙印を押すことが出来た。
周勃は狙われたと分かったからこそ辞任したのであろう。

絳侯為丞相、朝罷趨出、意得甚。上禮之恭、常自送之。袁盎進曰「陛下以丞相何如人?」上曰「社稷臣。」盎曰:「絳侯所謂功臣、非社稷臣、社稷臣主在與在、主亡與亡。方呂后時、諸呂用事、擅相王、劉氏不絕如帶。是時絳侯為太尉、主兵柄、弗能正。呂后崩、大臣相與共畔諸呂、太尉主兵、適會其成功、所謂功臣、非社稷臣。丞相如有驕主色。陛下謙讓、臣主失禮、竊為陛下不取也。」後朝、上益莊。丞相益畏。
(『史記』袁盎鼂錯列伝)

文帝の周りには既にこの袁盎や先に述べた賈誼といった新戦力が付いていた。
彼らは文帝に傀儡からの脱却や制度改革などを説き、文帝に受け入れられていたのである。
おそらく周勃を狙った質問も、彼らの進言を受けてのものだったのだろう。


文帝以降の政治に大きく影響を与えた賈誼は、こんなことも述べている。

割地定制、令齊・趙・楚各為若干國、使悼惠王・幽王・元王之子孫畢以次各受祖之分地、地盡而止、及燕・梁它國皆然。
(『漢書』賈誼伝)

諸侯王の細分化である。強大な諸侯から反乱しているという事実から、諸侯王を分割して王の子孫をそれぞれ封建してしまうことを説いているのである。
これは項羽による十八諸侯封建や、呂后時代の呂氏封建も似たような考えから生まれたものだろう。
たとえ隣国の王は兄弟であろうとも、別の国にしてしまえば完全な連携は困難になる。それだけ反乱などをしにくくなるし、仮に起こったとしても各個撃破しやすい、というわけだ。

文帝はこれに沿って斉を分割し、全部で七人の諸侯王を立てた。
呉楚七国の乱において、斉の諸国は反乱に加担したが足並みを乱し、実際に反乱に加わったのは四国に留まった。賈誼の策が功を奏したのである。
この策が優秀なのは、分割を反発を招く強硬手段ではなく、「王の子孫皆を諸侯王にしてやる」という恩沢として行えたことであろう。
時勢などの違いもあるとはいえ、ここが項羽呂后と違い成功した理由ではないかと思う。


内に功臣周勃たちへの牽制、外に諸侯王分割と、文帝は側近の進言を受けてなかなかにえげつない手を打ったと言えるだろう。
このえげつなさこそが文帝の持ち味だと思う。