さかのぼり前漢情勢23

なぜか曹叡の記事がYahoo知恵袋からリンクされていたという無関係な情報を入れた上でhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100228/1267331688の続き。


武帝の征和年間の前は太始。その前は天漢。それぞれ四年間。
この都合八年間は合わせて取り扱う。

天漢、太始年間(それと征和年間も)は実は匈奴との戦が繰り広げられた時期だった。
とはいえ大将は李広利。衛青、霍去病の時代とはレベルが違いすぎると言っていいだろう。

夏五月、貳師將軍(李広利)三萬騎出酒泉、與右賢王戰于天山、斬首虜萬餘級。又遣因杅將軍出西河、騎都尉李陵將步兵五千人出居延北、與單于戰、斬首虜萬餘級。陵兵敗、降匈奴
(『漢書武帝紀、天漢二年)

かの李陵が匈奴に降伏したのがこの時である。
李陵は自ら分隊となって匈奴を李広利の本隊と二手に分かれさせようと進言し、武帝が騎馬を出せないと反対したが歩兵で十分ですよと豪語した。
結局それが敗北を招いたわけだが、匈奴単于の本隊と戦う羽目となりながら必死で抵抗し、敵兵一万以上の首を取ったという。
これは李陵と配下の兵の強さを物語るだけではなく、漢と匈奴の強さの関係も物語っている。


この時期においては、匈奴は漢に兵の強さで力負けしているのだ。


これは武帝時代の攻勢で匈奴が弱体化したせいもあるだろうし、漢の側が戦術面や装備面などで進化していたからかもしれない。
いずれにしろ、この頃の漢にとって匈奴は「勝てない強敵」ではなくなっていたのだ。


一方、武帝の治世は多数の群盗の発生を招いていた。

泰山・琅邪群盜徐勃等阻山攻城、道路不通。遣直指使者暴勝之等衣繍衣杖斧分部逐捕。刺史郡守以下皆伏誅。
冬十一月、詔關都尉曰「今豪傑多遠交、依東方群盜。其謹察出入者」
(『漢書武帝紀、天漢三年)

泰山・琅邪は前漢末も後漢末も反乱や独立勢力が勃興しているという支配者側から見ると大変不穏な土地であるらしい。
後に御史大夫となる使者暴勝之は群盗の逮捕と、群盗発生に対処できなかった太守・刺史の誅罰の旅へと出た。

是時郡守尉諸侯相二千石欲為治者、大抵盡效王溫舒等、而吏民益輕犯法、盜賊滋起。南陽有梅免・百政、楚有段中・杜少、齊有徐勃、燕趙之間有堅盧・范主之屬。大群至數千人、擅自號、攻城邑、取庫兵、釋死罪、縛辱郡守都尉、殺二千石、為檄告縣趨具食。小群以百數、掠鹵鄉里者不可稱數。
於是上始使御史中丞・丞相長史使督之、猶弗能禁、乃使光祿大夫范昆・諸部都尉及故九卿張紱等衣繍衣持節、虎符發兵以興撃、斬首大部或至萬餘級。及以法誅通行飲食、坐相連郡、甚者數千人。數歲、乃頗得其渠率。散卒失亡、復聚黨阻山川。往往而群、無可奈何。於是作沈命法曰「群盜起不發覺、發覺而弗捕滿品者、二千石以下至小吏主者皆死」其後小吏畏誅、雖有盜弗敢發、恐不能得、坐課累府、府亦使不言。故盜賊漸多、上下相為匿、以避文法焉。
(『漢書』酷吏伝)

この時期の地方統治は豪族をガンガン殺す酷吏流が主流だったが、それも限界だった。
重税による離農者は群盗となり、あるいは豪族の隷民となる。
彼らは取り締まる対象となったが、なかなか倒しきれない。
負けたら命が無いのだから、群盗は必死である。
しかも、「沈命法」という群盗が発生し鎮圧できなかった場合の太守や官吏を処刑するという法律が事態を一層悪化させたという。
「沈命法」にひっかからないように、小吏から太守までグルになって群盗の存在を隠蔽するようになったというのだ。

多分、今も昔も厳しすぎる法律は逆に作用するのだ。
敵を包囲する時と同じで、逃げ道を用意してやらないといけないのだろう。


このにっちもさっちもいかない地方統治の現状が、丞相田千秋や霍光時代の休民政策つまり特に何もしないという政策転換へと繋がったと思われる。