さかのぼり前漢情勢20

もうちょっとだけ続くんじゃhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100224/1266937337の続き。


霍光たちは、武帝から幼い昭帝を託され、側近から一気に大司馬大将軍領尚書事という漢の頂点へと引き上げられた。

だが、喜んでばかりもいられない。
肝心な昭帝に重大な疑惑がつきまとっていたからだ。

帝崩、太子立、是為孝昭帝、賜諸侯王璽書。旦得書、不肯哭、曰「璽書封小。京師疑有變」遣幸臣壽西長・孫縱之・王孺等之長安、以問禮儀為名。王孺見執金吾廣意、問帝崩所病、立者誰子、年幾歲。廣意言待詔五莋宮、宮中讙言帝崩、諸將軍共立太子為帝、年八九歲、葬時不出臨。歸以報王。王曰「上棄群臣、無語言、蓋主又不得見、甚可怪也」
(略)
旦曰「前高后時、偽立子弘為皇帝、諸侯交手事之八年。呂太后崩、大臣誅諸呂、迎立文帝、天下乃知非孝惠子也。我親武帝長子、反不得立、上書請立廟、又不聽。立者疑非劉氏」
(『漢書』燕剌王劉旦伝)

時衛尉王莽子男忽侍中、揚語曰「帝崩、忽常在左右、安得遺詔封三子事!群兒自相貴耳」光聞之、切讓王莽、莽酖殺忽。
(『漢書』霍光伝)

昭帝は八歳にして皇太子に立てられ、すぐさま即位した。
つまり、世間には昭帝が後継ぎだということは認知されていなかったのである。
しかも、武帝の葬儀にも姿を見せなかったという。

更に、武帝の死にも疑問があった。
離宮での崩御であったが、詳細は高官たちにもよくわからず、実の娘である蓋主(蓋公主)でさえも謁見できなかったというのだ。
侍中つまり武帝の小姓であった王忽なる男などは、霍光らを後見とする遺言などなかった、とまで断言した。


つまるところ、昭帝擁立や霍光らの将軍就任は、離宮において大臣達を隔離した密室ですべて決定されているのだ。
これは帝位を狙う燕王ならずとも、怪しみたくなるというものだろう。


事実は今や誰にも分からないが、確実なことは、このあまりにも怪しい遺言によって即位した昭帝と後見人霍光らは、あからさまに疑いの目を向ける燕王らへの対応を第一にしなければならなかったということだ。
それがある意味では行政への無関心と放置を生み、国力回復につながったのかもしれないが。


なお、昭帝の母にはこんなエピソードが伝わっている。

太始三年生昭帝、號鉤弋子。任身十四月乃生、上曰「聞昔堯十四月而生、今鉤弋亦然」乃命其所生門曰堯母門。
(『漢書外戚伝)

其後帝閑居、問左右曰「人言云何?」左右對曰「人言且立其子、何去其母乎?」帝曰「然。是非兒曹愚人所知也。往古國家所以亂也、由主少母壯也。女主獨居驕蹇、淫亂自恣、莫能禁也。女不聞呂后邪?」
(『史記外戚世家)

昭帝は妊娠十四月にして誕生したという。
現代人から見れば「昭帝は本当に武帝の子か?」と怪しむところだが、少なくとも武帝はそうではなかったと伝えられる。
そして、その母は武帝が昭帝を後継者に決めたとたんに後顧の憂いを絶つために殺されたという。


その割に、燕王は昭帝が後を継ぐことどころか、昭帝の存在自体すら怪しんでいたフシがある。
いくら自分が帝位に就きたいと思っているとはいえ、全くのデタラメを言っては自分の信用が失われる。
どこかしら、昭帝は武帝の子ではないのではないか、という疑いをかけたくなるような状況があったのではないか。


なお、漢の歴史では即位したばかりの経験不足の皇帝を皇太后つまり新帝の母とその一族すなわち外戚が後見し、補佐するという体制が取られている。
呂后がそうだし、景帝、武帝の時も、元帝、成帝、哀帝の時もそうである。
武帝が昭帝の母を排除した考え方の方が異端なのである。
昭帝は母が始末されたことで逆によるべない孤児となり、霍光らを頼るしかない状況に追い込まれているのだ。


武帝から昭帝という皇位継承は疑問と不審な点だらけなのである。

秦の始皇帝行幸中に死亡したが側近の宦官によってそれを隠され、辺境にいた長子扶蘇を立てよという遺言も側近の宦官によって胡亥を立てるようにと書き換えられた。
武帝が死亡した状況も似通っていたかもしれない。
燕王は自分が扶蘇の立場だと感じたことだろう。


こんな疑惑の即位であったにも関わらず地位を守り通した昭帝と霍光の能力はもっと評価してよいかもしれない。