さかのぼり前漢情勢19

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さて、霍光時代の宰相である丞相はどうだったのか。

昭帝が即位した時の丞相は田千秋(車千秋)。
戻太子の乱について、低い身分でありながら武帝に太子の罪が軽い事を主張して武帝に気に入られ、一気に丞相まで昇ったといういわくつきの人物。

バリバリやるようなタマではなかったが、さりとて人畜無害の人材というのもちょっと違う。

後歲餘、武帝疾、立皇子鉤弋夫人男為太子、拜大將軍霍光・車騎將軍金日磾・御史大夫桑弘羊及丞相千秋、並受遺詔、輔道少主。武帝崩、昭帝初即位、未任聽政、政事壹決大將軍光。
千秋居丞相位、謹厚有重紱。每公卿朝會、光謂千秋曰「始與君侯俱受先帝遺詔、今光治内、君侯治外、宜有以教督、使光毋負天下」千秋曰「唯將軍留意、即天下幸甚」終不肯有所言。光以此重之。每有吉祥嘉應、數褒賞丞相。訖昭帝世、國家少事、百姓稍益充實。
(『漢書』車千秋伝)

丞相在任中に武帝の死に直面した田千秋は、御史大夫桑弘羊と違い霍光にたてつかず、ひたすら霍光を立てた。
霍光もまたことあるごとに田千秋を立てた。
この誉め合いの一方で「國家少事、百姓稍益充實」と言われるように、武帝時代の積極政策による疲弊から人々は回復し始めていた。


これはどうやら武帝が志向していたことだったらしい。

武帝末年、悔征伐之事、乃封丞相為富民侯。下詔曰「方今之務、在於力農」
(『漢書』食貨志上)

富民侯とはつまり田千秋のこと。
武帝は民を富ませることを第一とするというメッセージを称号に込めたのである。
田千秋が無能に見えるほど何もしていないのは、本当に無能なので何もしなかった可能性も高いが、武帝の政策を引き継いで民生第一の消極策に出たから、という側面もあるはずだ。

贊曰、所謂鹽鐵議者、起始元中、徵文學賢良問以治亂、皆對願罷郡國鹽鐵酒榷均輸、務本抑末、毋與天下爭利、然後教化可興。
(『漢書』巻六十六賛)

いわゆる塩鉄の議は主に儒者御史大夫桑弘羊の論争となり、案の定丞相田千秋は陰に隠れてしまっている。
これも田千秋は論争できるタマじゃなかったという面と、民生重視の使命を負わされた田千秋は国家財政重視の高負担論者桑弘羊と政策的に噛み合わなかったという面もあったかもしれない。


ともあれ、このような人物が丞相として長く位にあったお陰か、漢の国力は回復し始める。
宣帝以降の中興は昭帝期の政治的空白のお陰かもしれない。


それと、田千秋は勝ち組を嗅ぎ分ける鼻は優れていたようだ。

弋陽節侯任宮
以故丞相徵事手捕反者左將軍桀、侯、九百一十五戸。

商利侯王山壽
以丞相少史誘反者車騎將軍安入丞相府、侯、九百一十五戸。

(『漢書』景武昭宣元成功臣表)

燕王旦の乱の際、上官桀と上官安を捕らえたのは丞相府の人間だった。
しかも商利侯王山寿の事績を見ると、上官安は丞相府に誘い込まれている。
首謀者の一人がやすやすと誘い込まれるところを見ると、彼らは丞相が自分の味方だと信じていたのだろう。しかし丞相田千秋は霍光に味方し、自分たちを捕まえるよう部下に命じたのである。
田千秋が寝業師だということを示すエピソードと言えよう。