魏延の最後についての戯言

魏略曰、諸葛亮病、謂延等云「我之死後、但謹自守、慎勿復來也。」令延攝行己事、密持喪去。延遂匿之、行至褒口、乃發喪。亮長史楊儀宿與延不和、見延攝行軍事、懼為所害、乃張言延欲舉衆北附、遂率其衆攻延。延本無此心、不戰軍走、追而殺之。
臣松之以為此蓋敵國傳聞之言,不得與本傳爭審
(『三国志魏延伝注)

三国蜀の魏延の末路についての異聞。

敵国魏の記録である『魏略』では、『三国志』本文とは逆と言ってもいい内容が記されている。
確かに裴松之が言うように敵国が伝聞だけで記した内容だから信憑性に乏しいものと言うべきだろう。


ただ、なぜ本伝と真逆の伝聞が伝わったのだろうか。これは疑問だ。
魏延が自らの正当性を主張する文書が伝わったのだろうか。しかしこれは楊儀陣営も出しているし、何より魏に魏延側のものだけが伝わるというのはちょっと考えにくい。

考えてみると、このとき魏延諸葛亮を除くと将軍位が北伐随行者の中で一番高いはずである。
更に、督漢中や諸葛亮の軍事顧問などとして劉備諸葛亮に重用されている(ように見える)将軍である。
少なくとも魏から見れば、諸葛亮を失った軍の指揮を代行するのは魏延という方が自然であるように見えたのだろう。軍事能力は未知数な楊儀よりはずっと。

なのに楊儀が代行になり魏延は殺されたとの情報が入れば、楊儀がクーデターを起こして地位を奪ったのだと考えるのが当然だろう。
まして敵国なので、「下位の臣が上位の臣を蹴落とす序列無視の野獣のような連中」みたいなネガティブキャンペーン的要請からも、楊儀クーデター説を取りたくなるという部分もある。


ここまで考えてみて思った。
魏は魏延の方が正当性があったと感じていた。
蜀には同じ思いの人間はいなかったのだろうか?