三戸

居鄛人范筯、年七十、素居家、好奇計、往說項梁曰「陳勝敗固當。夫秦滅六國、楚最無罪。自懷王入秦不反、楚人憐之至今、故楚南公曰『楚雖三戸、亡秦必楚』也。今陳勝首事、不立楚後而自立、其勢不長。今君起江東、楚蠭午之將皆爭附君者、以君世世楚將、為能復立楚之後也。」
(『史記項羽本紀)

秦が楚を滅ぼして以降、「楚雖三戸、亡秦必楚」という言葉が楚人の間に伝わっていたらしい。「楚は三戸しか生き残らなくても、秦を滅ぼすのは必ずや楚であろう」となるだろうか。


楚は実際には三戸まで減ることはなかったが、この予言はちょっとイレギュラーな形で成就する。

章邯狐疑、陰使候始成使項羽、欲約、約未成、項羽使蒲將軍日夜引兵度三戶、軍漳南、與秦戰、再破之。項羽悉引兵擊秦軍汙水上、大破之。
(『史記項羽本紀)

秦の反乱討伐軍の将である章邯は項羽と戦い劣勢で、更に本国の丞相趙高からは切り捨てられる恐れを感じており、手詰まりになっていた。ついに彼は項羽との休戦を考えるが、項羽は三戸という渡し場から漳水を渡り、章邯の秦軍を破った。これにより章邯は項羽に降伏し、秦は致命傷を受けるのである。