宰相の器

遂代石慶為丞相、封葛繹侯。時朝廷多事、督責大臣。自公孫弘後、丞相李蔡、嚴青翟、趙周三人比坐事死。石慶雖以謹得終、然數被譴。
初賀引拜為丞相、不受印綬、頓首涕泣曰「臣本邊鄙、以鞍馬騎射為官、材誠不任宰相。」上與左右見賀悲哀、感動下泣、曰「扶起丞相。」賀不肯起、上乃起去、賀不得已拜。
出、左右問其故、賀曰「主上賢明、臣不足以稱、恐負重責、從是殆矣。」
(『漢書』公孫賀伝)

漢の武帝の時代、宰相である丞相は武帝の厳しい責めを受けて多くが命を落としていた。

丞相に起用された将軍公孫賀は、任命の場で泣き叫び、丞相の証である印綬を受け取ろうとしなかった。

結局は命を受けることとなったが、公孫賀は「お上が賢明であるのに私はそれに釣り合わない。きっと重い責めを受けてこの身も危ういことであろう」と心配した。


武帝期の朝廷の雰囲気をよく表しているイヤなエピソードだが、この話のオチは公孫賀の丞相在任期間が前漢の丞相で最長の足掛け13年にも及んだこと。


任命されたときから「私にはできません」と泣き叫んだ奴を13年もその地位に置き続けるとは、武帝のサディストっぷりには脱帽するしかない。