昌平くん

王知之、令相國昌平君・昌文君發卒攻(嫪)毐。戰咸陽、斬首數百。
(『史記』秦始皇本紀、秦王政9年)

昌平君徙於郢。
(『史記』秦始皇本紀、秦王政21年)

秦王游至郢陳。荊將項燕立昌平君為荊王、反秦於淮南。二十四年、王翦・蒙武攻荊、破荊軍、昌平君死、項燕遂自殺。
(『史記』秦始皇本紀、秦王政23年)

昌平君とは秦王政、いわゆる秦の始皇帝の統一前の相国であった人物である。

史書には、秦王の命によりかの嫪毐を攻めて功があったこと、秦王政21年(BC226)に楚(荊)の都であった郢(寿春)に移ったこと、そして秦王政23年(BC224)楚将項燕(項羽の祖父)によって王に擁立されて秦に背き、王翦・蒙武に討たれたことが記されている。

しかしこの時期、楚には別に王が存在していた。

哀王立二月餘、哀王庶兄負芻之徒襲殺哀王而立負芻為王。
(『史記』楚世家)

この負芻が王となったのは『史記』六国年表によると秦王政19年(BC228)。そして楚世家・六国年表によると項燕が破れたのが秦王政23年(BC224)。その翌年に負芻が秦に捕らえられ、楚が滅亡している。


つまり、昌平君は荊王に立てられたが、楚王負芻と同時に王位にあったということになる。

そしておそらくだが、楚世家では全く存在に触れられていないことから想像するに、荊王昌平君は楚王負芻陣営からは正統性を認められていなかったのではないだろうか。

さらに想像をたくましくすると、王がいるにも関わらず昌平君を擁立した項燕およびその系譜の者たちも、楚王やその大臣たちからは必ずしも良い目で見られなかったのではないだろうか。

もしかすると、楚の項燕系統と楚王系統の反目が、項羽と懐王の間の緊張関係にまで及んだのかもしれない。