劉邦の対楚戦略について

漢王跳、獨與滕公共車出成皋玉門、北渡河、馳宿脩武。自稱使者、晨馳入張耳・韓信壁而奪之軍。乃使張耳北益收兵趙地、使韓信東撃齊。漢王得韓信軍、則復振。引兵臨河、南饗軍小脩武南、欲復戰。郎中鄭忠乃説止漢王、使高壘深塹、勿與戰。
漢王聽其計、使盧綰・劉賈將卒二萬人・騎數百、渡白馬津、入楚地、與彭越復撃破楚軍燕郭西、遂復下梁地十餘城。
(『史記』巻八、高祖本紀)

漢四年、漢王之敗成皋、北渡河、得張耳・韓信軍、軍脩武、深溝高壘、使劉賈將二萬人・騎數百、渡白馬津入楚地、燒其積聚、以破其業、無以給項王軍食。已而楚兵撃劉賈、賈輒壁不肯與戰、而與彭越相保。
漢五年、漢王追項籍至固陵、使劉賈南渡淮圍壽春。還至、使人輭招楚大司馬周殷。
周殷反楚、佐劉賈舉九江、迎武王黥布兵、皆會垓下、共撃項籍。
(『史記』巻五十一、荊燕世家、荊王劉賈)

サラッと書かれてる感があるけど、このあたりの話って割と凄い事じゃないだろうか。




いくら復活の途上にあったとはいえ項羽に負けた後の劉邦が、敵地のはずの楚へ兵を送り込み、まんまと後方攪乱や兵站破壊を成功させ、最後には重臣と思われる大司馬周殷を離反させるに至った。





つまり項羽はこれで本拠のはずの楚の大部分を失った事になるはずで、一気に敗死に至る要因と言えるだろう。





だがこれも、以前より私が言っている「項羽は本来楚にとって反乱者であり、「西楚覇王」を称して以降も楚内に項羽に対し反抗的な勢力が多かった」という事の一つの現れと見る事も出来るのではなかろうか。



劉邦はそもそも同じ楚の将であるから、劉邦の軍が「侵攻する敵」ではなく「同じ敵と戦う同盟軍」に見えた者も少なからずいたのではなかろうか。

そういった者は劉邦の軍に対し門戸を開き、自ら協力した事だろう。



それが「敵地」楚に攻め込み短期間で大きな成果を挙げた理由なのではなかろうか。