曹操大将軍復帰説

後漢末の建安元年、楊奉らから献帝を騙し取って許県に連れてきた曹操は、最初大将軍に任命されたものの袁紹からの圧力に屈して自分は司空、行車騎将軍に退き、袁紹を大将軍とした。

さて、建安4年になると曹操袁紹の関係が険悪になり、ついには戦端を開くこととなったが、この頃に注目すべき人事異動が行われた。


すなわち、衛将軍であった董承が車騎将軍に任命され、張繍と共に曹操に降伏した賈詡が執金吾から冀州牧に遷ったのである。


冀州牧というのは袁紹の官位である。つまりこれは袁紹の官位を否定したことになる。要するに曹操袁紹を漢に対する反乱者と扱い、真っ向から立ち向かうという意思表示をしたということであろう。

となると、袁紹の持っていた官位である大将軍も当然否定されたと見るべきであろう。
大将軍の位は空位になったことになるわけだが、後任はいなかったのだろうか。


ここでもう一度上の人事異動を見てみる。
董承が車騎将軍に任命されているが、車騎将軍は曹操が「行」(代理)扱いとはいえ就任していたのである。曹操の将軍位はどうなったのだろうか。『三国志武帝紀などにはこのあたりの事情が書いていないと思うのだが、董承が車騎将軍になって曹操は将軍位を失ってしまったのであろうか。

答えは否だ。
当時の序列などから考えたら、曹操が董承より上位に任命されたからこそ車騎将軍が空いたと考えるべきだろう。

もちろん、袁紹との断交および交戦を表明した曹操が新たに就任するとしたら、袁紹が就いていた大将軍しかない。



おそらく行われたであろう大将軍への昇進は『三国志』などに明記されていないが、その痕跡はある。

太祖平河北、為大將軍後拒。
(『三国志夏侯惇伝。後拒とは後詰のことらしい。)

いつのことか明確ではないが、曹操が河北平定に乗り出してから鄴を落とす以前までの段階で夏侯惇は「大将軍後拒」となっている。
つまり袁紹以外の「大将軍」の後詰をしているということであるから、誰かが大将軍になっているのだ。
誰かと言っても、もちろん曹操以外には考えられないだろう。