漢初の代王2

四月、擊陳豨、屬太尉勃、以相國代丞相噲擊豨。一月、徙為代相國、將屯。二歲、為丞相、將屯。孝惠五年薨。
(『漢書』傅𥶡伝)

陳豨の乱平定に加わった漢の高祖の将である傅𥶡は、代の相国、次いで丞相となった。
「将屯」とはおそらく兵を率いて代に駐屯したということだろう。

代というのは陳豨が匈奴と組んで反乱を起こしたいわくつきの地。傅𥶡の屯兵は匈奴と陳豨の残党に備えたものなんだろう。


高祖の子、劉恒が封建された代とはそういう土地柄。長安との距離を考えても、諸侯王たちがさまざまな締め付けや危険にさらされた呂后時代において、呉王劉濞と違い単に放置するというのはちょっと無さそう、と思う。