漢初の代王

前漢高祖時代の代王について、ちょっと変な感じになってるのを見つけた。

史記』高祖本紀によると、高祖6年に韓王信が太原に移封され、翌7年に匈奴に降伏。その年に兄劉仲(劉喜)を代王に立てている。しかし劉喜は8年に国を放棄している。その後高祖11年になって趙相国陳豨の乱の平定後に高祖の子劉恒(文帝)が代王に立てられた。

史記』漢興以来諸侯王年表では、代は韓王信が王に立てられ、彼が匈奴に降伏した後に王国ではなく郡となり、高祖11年に高祖の息子劉恒(文帝)が王に立てられたとされている。

漢書』高帝紀下では、高祖6年に代王劉喜が立てられ、劉喜は7年に匈奴来襲から国を逃げ出した。そこで高祖は子の劉如意を代王に立てている。高祖9年になり、趙王が謀反で廃位されると劉如意が代わりに趙王となった。翌10年に代相国陳豨が反乱し、その翌年11年に乱が平定されると劉恒が代王に立てられている。

漢書』諸侯王表では、劉喜は高祖6年から7年まで代王。劉如意は9年に趙王に立てられている。劉恒は11年に代王に立てられている。


何が問題か。
まず高祖10年に反乱した陳豨は『史記』本紀では趙相国、『漢書』本紀では代相国となっているが、その時点ではどちらも王が不在なのだ。
それどころか、『史記』淮陰侯列伝では、陳豨は「鉅鹿守」となっており、相国ではないのだ。だが『史記韓信盧綰列伝では趙相国と言われている。
更に、『漢書』本紀では劉如意が劉喜と入れ替えで代王になっているが、この記録は他には見えず、他の記録ではいずれも代には劉喜から劉恒までの間が不在であったかのようになっている。これは『漢書』劉如意伝でも同じであり、劉如意が高祖7年から9年まで代王だったようには書かれていない。

一体、この混乱はなんなんだろう。