後漢の琅邪王

永平二年、以太山之蓋﹑南武陽﹑華、東萊之昌陽﹑盧鄉﹑東牟六縣益琅邪。・・・
京國中有城陽景王祠、吏人奉祠。神數下言、宮中多不便利、京上書願徙宮開陽、以華﹑蓋﹑南武陽﹑厚丘﹑贛榆五縣易東海之開陽﹑臨沂、肅宗許之。・・・
初、邈(※順王容の弟)至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此紱於邈。
(『後漢書』琅邪孝王京伝)

後漢の琅邪王にはちょっと面白いエピソードがあった。

あの城陽景王祠のお告げに従って東海国から開陽や臨沂をトレードしてきてること。

一旦は泰山郡から所管換えした華県が再度トレードされてること。

後漢琅邪国の都は後漢末に臧霸らが本拠にした開陽であること。(王と臧霸らの関係はどうだったんだろうか?)

城陽景王祠をぶち壊したことや徐州殺戮で有名な曹操を琅邪王の弟が褒め称えてること。(時間軸的には徐州攻めの前だが)

考えてみると諸葛亮らは琅邪郡ではなく、生まれたころは琅邪王国の人間だったんだなあ。


参考:http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20090402/p1