出生秘話

范隆字玄嵩、雁門人。父方、魏雁門太守。隆在孕十五月、生而父亡。年四歳又喪母、哀號之聲、感慟行路。單孤無緦功之親、疏族范廣愍而養之、迎歸教書、為立祠堂。隆好學修謹、奉廣如父。博通經籍、無所不覽、著春秋三傳、撰三禮吉凶宗紀、甚有條義。
(『晋書』巻九十一、儒林伝、范隆)


魏から晋にかけての人物、范隆。



彼は妊娠15か月で誕生し、誕生したころには父は既に死んでいたのだそうだ。




・・・父の死後数か月して妊娠発覚したことを「父が生きていたころの子なんです!妊娠15か月目なんです!」って言い張った、ってコト・・・?!




まあ、こういった真実は石の下から這い出てこないようにする方がいいのかもしれないが。

思い付き

「ほら!すぐ帝位が欲しいなら殺してみろよ!その気になれば一瞬だろ!ほら!やってみろって!ただ初代皇帝がそんなことする王朝は碌なことにはならないぞ!ほらやってみろって!」みたいな心境であったという点では、建安末期の献帝と挙兵の時の高貴郷公はだいたい同じ説。


次の王朝に呪詛をかけるためだけの存在になっていた・・・、と。



曹操はそれを回避せんとして自分による即位を諦め、司馬昭は結果として火中のうにを拾った(けど結局自分では即位できなかったが)。




ひとこと

そういえば先日の記事だけど、献帝の子の中で魏になってから一人だけ公主扱いされた子は、まあまず確実に曹操の娘の生んだ子だろうなあ・・・。



魏王朝においては現役皇帝と元皇帝の双方と血が繋がる人物になるんだろうから、特別扱いも当然と言えるかもしれない。

ひとこと

魏の長楽郡、どこにあったのかよくわからないな・・・。晋の長楽郡は冀州にあったようだが・・・。



魏郡に長楽県があったようなので、これが郡扱いされていたのかもしれない。




まあでも結局はよくわからない。

2つの長楽

魏書曰、(黄初四年)十二月丙寅、賜山陽公夫人湯沐邑、公女曼為長樂郡公主、食邑各五百戸。
(『三国志』巻二、文帝紀注引『魏書』)


どうやら魏王朝の早い段階で「長楽郡」が生まれていたようだ。『晋書』でもしばしば「長楽太守」の存在が記されている。



確証はないが、魏王朝では「長楽宮」は無くなって、「長楽」というと専ら「長楽郡」を指すようになっていたのだろうか?

ひとこと

そういえばかの魏諷の乱の時に魏国の「長楽衛尉」が出てくる。




長楽衛尉は少なくとも漢代では皇太后の宮殿「長楽宮」の衛尉と言うことになるので、この時の魏国には王太后曹操の母は存在していなかったと思うが宮殿はあったということのようだ。



まあ次の代には必要になるはずなので、最初から用意されているのは不思議ではない。



それとも、この時の長楽宮は別の存在(例えば王后卞氏の宮殿とか)だったのだろうか。




よくわからないが、どうやらその後の魏では長楽宮の話が出てこないようなので推測する術が無い。