曹操が死に際になって後継者を曹丕から曹植に替えようとしたのだとして、一方的に廃嫡するだけの落ち度が曹丕にあったのだろうか?
言い換えると、廃嫡できる口実があったのだろうか?
と思ったが、一つ心当たりがある。
いわゆる魏諷の事件(魏諷の乱)である。
この事件が起こったのは明らかに魏王国内(魏諷は魏王国の相国鍾繇の配下であった)であり、曹丕はずっと魏王国内に居たようであるから、曹丕はいわば魏王曹操の名代であり、事実上の責任者としての責務を果たせなかった、と言い得るのではないだろうか。
曹操あるいはその周囲の曹植支持者が、魏諷の事件を好機として太子決定により下火になっていたであろう曹丕廃嫡・曹植後継運動を復活させ、仮に曹操が無事に戦場から戻っていたら正式に廃嫡へ向けて動こうとしていた、ということかもしれない。
それなら、曹操が臨終になって曹植への継承を望むというのも、曹操自身にとっては急な思い付きではなく、いずれそのつもりだったことを自身の死のために前倒しで実行しただけ、というつもりだった・・・ということになるかもしれない。
まあそれでも相当の混乱が予想されることに変わりはないので、曹操と曹彰以外にとっては曹操が重篤な病状で精神が錯乱状態になっていたようにしか思えなかったかもしれないが。