選挙不実

(趙)温從車駕都許。建安十三年、以辟司空曹操子丕為掾、操怒、奏温辟臣子弟、選舉不實、免官。是歳卒、年七十二。
(『後漢書』列伝第十七、趙温伝)

後漢最後の司徒趙温は、曹丕を司徒掾すなわち自分の部下として招いたことで曹操の怒りを買い、「人材選びを私欲から曲げている(選挙不実)」とされて罷免となった。





息子曹丕を司徒掾に招いたことを、曹操は何故そこまで怒ったのか。



実際には曹操が丞相の座に就くため「邪魔者」を排除しようということだったのかもしれないが、曹丕を司徒掾にするということは曹操にとってリスクのある行為であった。




(李)傕大怒、欲遣人殺(趙)温。李傕從弟應、温故掾也、諫之數日、乃獲免。
(『後漢書』列伝第十七、趙温伝)

それより以前、長安で李傕が権力を握っていた時期、趙温は李傕を批判して怒りを買い、李傕に殺されそうになっていた。



だが李傕の従弟の李応なる人物が趙温の掾だったことがあったことから、かつての主を守ろうとした李応が李傕を必死で諌めたため、趙温は命拾いしたのだという。




これは李応が趙温に心酔して従兄に逆らったというよりは(そういう側面もあったかもしれないが)、「挙主」「故吏」の関係は親族の利害関係などを超えて守るべきもの、優先すべき事柄という認識があったということなのだと思う。




つまり、曹丕が趙温の「故吏」となったとしたら、いざ曹操が趙温を何らかの形で「排除」しようとするのを曹丕が反対するという構図が出来上がってしまう(かもしれない)のである。




曹操が怒ったのは、その「カタに嵌められる」のを嫌ったからではあるまいか。






李傕には通用した趙温の保身策は曹操には通用しなかった、と言う事もできそうだ。