内史は内史じゃない

(高帝二年)六月、漢王還櫟陽。壬午、立太子、赦罪人。令諸侯子在關中者皆集櫟陽為衛。引水灌廢丘、廢丘降、章邯自殺。雍地定、八十餘縣、置河上・渭南・中地・隴西・上郡。
【注】
服虔曰「河上、即左馮翊也。渭南、京兆也。中地、右扶風也。」師古曰「凡新置五郡。」
(『漢書』巻一上、高帝紀上、高帝二年)

雍王章邯を滅ぼした漢王劉邦は、雍などの三秦の地に「河上・渭南・中地」といった郡を置いたという。



だがこの地は武帝により三輔(左馮翊・京兆尹・右扶風)とされるまでは「内史」即ち直轄地扱いであった。




この高祖2年の時点では漢王の直轄地は漢中と蜀であって、三輔の地もまだ漢王国にとっては領域外の占領地として扱われた、という事だろうか。




たぶんこの時点での漢王の「内史」というのは漢中の事なのだろう。