班氏と王莽

哀帝即位、出(班)穉為西河屬國都尉、遷廣平相。
王莽少與穉兄弟同列友善、兄事斿而弟畜穉。斿之卒也、修緦麻、賻賵甚厚。
平帝卽位、太后臨朝、莽秉政、方欲文致太平、使使者分行風俗、采頌聲、而穉無所上。
琅邪太守公孫閎言災害於公府、大司空甄豐遣屬馳至両郡諷吏民、而劾閎空造不祥、穉絶嘉應、嫉害聖政、皆不道。太后曰「不宣徳美、宜與言災害者異罰。且後宮賢家、我所哀也。」閎獨下獄誅。穉懼、上書陳恩謝罪、願歸相印、入補延陵園郎、太后許焉。食故祿終身。
由是班氏不顯莽朝、亦不罹咎。
(『漢書』巻一百上、叙伝上)

前漢末期の班氏(あの班固の祖父)班穉は、王莽時代(平帝時代)に「自分の統治する区域内で瑞祥があったのにそれを報告しなかった」ことで重罪(「不道」なので適用されたら多分死罪)になるところだったらしい。



その難を逃れたのは、成帝の側室班氏がこの班氏の出だった事と、おそらくは王莽自身が班氏と懇意だった事のお陰だったのだろう。つまりコネ。



真面目に災害の発生を報告した太守はそういうコネが無かったらしく、そのまま殺されている。




その後の「この事件で官界から退いたので班氏は王莽の時代に酷い目に遭わなかった」という部分を含め、なんというかどこを取ってもヤベェ話という感じである。