『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/25/000100)の続き。





正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放・侍中中書令孫資為左右光祿大夫。
丙戌、以遼東汶・北豐縣民流徙渡海、規齊郡之西安・臨菑・昌國縣界為新汶・南豐縣、以居流民。
自去冬十二月至此月不雨。
丙寅、詔令獄官亟平寃枉、理出輕微。羣公卿士讜言嘉謀、各悉乃心。
夏四月、車騎將軍黄權薨。
秋七月、詔曰「易稱損上益下、節以制度、不傷財、不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物、將奚以為?今出黄金銀物百五十種千八百餘斤、銷冶以供軍用」
八月、車駕巡省洛陽界秋稼、賜高年力田各有差。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

また遼東からの避難者の県を作る。しかし遼東で最近避難する理由というのは「魏(司馬懿)の軍から逃げる」ではないかと思うので、彼らは青州が魏にたやすく攻められて捕まったりしない土地、少なくとも魏が侵攻してきた遼東よりは魏に捕まりにくい場所だと思っていたという事なのだろうか?もちろんどこでもいいというわけではなく、青州には逃げ隠れしやすい土地が多かった、という事じゃないかと思うが。



容疑者釈放や国庫の財物の放出などは、言ってしまえば人気取りだろう。新たな皇帝および輔政者両名による新時代がよい時代だとアピールしておかないと、幼帝を権臣が操っている、みたいに思われてしまうというもの。だがまあ臣民にとってみれば人気取りだろうが自分たちを気にかけてくれていると思える方が望ましいに違いない。




正始元年春正月、東倭重譯納貢、焉耆・危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又增帝封邑。
初、魏明帝好修宮室、制度靡麗、百姓苦之。帝自遼東還、役者猶萬餘人、雕玩之物動以千計。至是皆奏罷之、節用務農、天下欣頼焉。
(『晋書』巻一、宣帝紀

なお『晋書』宣帝紀では倭や西域諸国・鮮卑などが来朝して貢ぎ物を納めてきたとされていたり、烈祖様の時の徭役や贅沢を司馬懿が取りやめさせたのだとされていたりする。