『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その1

ここまで来たら『三国志』三少帝紀も行ってみよう。





齊王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢。宮省事祕、莫有知其所由來者。青龍三年、立為齊王。
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。是日、即皇帝位、大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽・太尉司馬宣王輔政。
詔曰「朕以眇身、繼承鴻業、煢煢在疚、靡所控告。大將軍・太尉奉受末命、夾輔朕躬、司徒・司空・冢宰・元輔總率百寮、以寧社稷、其與羣卿大夫勉勗乃心、稱朕意焉。諸所興作宮室之役、皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上、免為良人。」
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

烈祖様の皇太子となり、その日のうちに即位したのは斉王芳。烈祖様生前から養子となっていた子供である。



子供と扱って王にしていたので、皇子として皇太子候補にするつもりだったのだろう。ただ、烈祖様は死ぬ時でもまだ三十代なので、生前は実子が生まれる可能性も捨てきれなかっただろうが。



烈祖様が危篤(「寝疾不豫」)となってから20日以上皇太子が立てられず、まさに死去するその日にやっと立てられた理由はよくわからない。誰を皇太子にするか悩んでいた(揉めていた)のか、司馬懿が来ないと決められないと思っていたのか、それとも他の事情があったのか。



新たな皇帝の補佐(輔政)は大将軍曹爽と太尉司馬懿。地位では曹爽が上位で、宗室でもあるが、年齢・経験では言うまでもなく司馬懿の方が上。そんな微妙なバランス。





即位して最初に行ったのは、先帝である烈祖様の遺言による「宮殿造営の労役の停止」だそうだ。


烈祖様自身も宮殿造営の問題点は認識していたという事か、それとも実際には輔政者たちが決めた事だったのか。