『三国志』明帝紀を読んでみよう:その17

その16(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/22/000100)の続き。





三年春正月丁亥、太尉宣王還至河内、帝驛馬召到、引入臥内、執其手謂曰「吾疾甚、以後事屬君、君其與(曹)爽輔少子。吾得見君、無所恨!」宣王頓首流涕。即日、帝崩于嘉福殿、時年三十六。癸丑、葬高平陵。
評曰、明帝沉毅斷識、任心而行、蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先聿脩顯祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是營、格之遠猷、其殆疾乎!
(『三国志』巻三、明帝紀

景初3年。



景初3年正月丁亥とは1月1日の事。



この日、烈祖様は急行してきた司馬懿と対面してから死去した、とされる。


齊王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢、宮省事祕、莫有知其所由來者。
青龍三年、立為齊王。
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。是日、即皇帝位、大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽・太尉司馬宣王輔政。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)


ここでは明記されていないが、斉王芳が皇太子に立てられたのもこの日である(そしてその日のうちに皇帝に即位した)。


つまりこの1月1日、烈祖様は司馬懿と面会し、そこで皇太子を立て、それから亡くなったという事になる。



「寝疾不豫」となってから20日程度は期間があった事になるが、ここまで皇太子は立てないでいた事になるのか。司馬懿を待ったという事なのだろうか?それとも、司馬懿に会うまではそれどころではない病状だったのだろうか?(燕王を大将軍に任免したなどの話と合致しないが)



言い出したらきりがない。とにかく、公式には司馬懿と曹爽がまだ幼い皇帝を補佐する体制の成立を見届けてから烈祖様は逝ったという事だ。




烈祖様の年齢についてはここでは語らない。ただ、こういった話があるので、この本紀に記される年齢は景初3年をカウントしているのか、それともカウントしていないのか、どちらなのだろうか、という疑問があるんじゃないか、という事は書いておく。





評において、烈祖様は素晴らしい資質があったが、父祖の事業をしっかり継承せずに始皇帝漢の武帝のような先を見据えた事を優先してしまったのが王朝の滅亡を速めたんじゃないか、という事を言っているようだ。



というか、60歳まで生きていれば史実における蜀漢滅亡前後まで生きる事になるわけだから、寿命さえあったなら全く状況は変わっていたんだろう、と思う。


宮殿造営や「三祖」の件、後宮を充実させた等の話などもあり、これらが烈祖様と魏王朝の評判を下げていた面はあったかもしれないが、寿命が長かったら蜀漢や呉へももっと早く攻勢に出ていたんじゃないだろうか、とは夢想できる。もちろん、あくまでイフなので実際にどうなるかなど分かったものではないが。