曹操の209年の強制移住政策は、50万人もの長江北岸の住民を南岸へ追いやってしまっただけでなく、対孫権戦略にも狂いを生じさせた。荊州を周瑜が悠々攻めることができ、そして曹仁に援軍を送る事も出来なかったが、これは計算違いだったかもしれない。https://t.co/8d7vhJeE0u
— 陸合 (@Rieg__Goh) 2018年10月17日
これは中々面白い視点かもしれない。
明年使於譙、太祖問(蒋)濟曰「昔孤與袁本初對官渡、徙燕・白馬民、民不得走、賊亦不敢鈔。今欲徙淮南民、何如?」濟對曰「是時兵弱賊彊、不徙必失之。自破袁紹、北拔柳城、南向江・漢、荊州交臂、威震天下、民無他志。然百姓懷土、實不樂徙、懼必不安。」太祖不從、而江・淮間十餘萬衆皆驚走呉。
後濟使詣鄴、太祖迎見大笑曰「本但欲使避賊、乃更驅盡之。」
(『三国志』巻十四、蒋済伝)
曹操が淮南方面での強制移住に失敗して多数の逃亡者を出した頃、曹仁は南郡(江陵)で周瑜と戦っていたとされる。
それに際し曹操は曹仁に大規模な援軍を出さず、結局南郡を失う事になっているのだが、淮南方面での情勢が荊州にも影響を与えていたとしたら、曹操が曹仁に援軍を出さなかったのは「出せなかった」ためと言う事になるのだろう。
その一方、曹仁の退却によって南郡が完全に孫権と劉備の手に落ちる事になった契機が淮南方面での失策にあった事になる。
このあたりについては、自分でももう少し考えてみたいところである。