逃亡罪の罪と罰

昭儀殉身。
昭儀、繁張氏女、廣漢朱叔賢妻也。賢為郡督郵。建安十九年、劉主圍劉璋成都、賢坐謀外降。璋以昭儀配兵。將見逼、昭儀自殺。三軍莫不哀嘆。
(『華陽国志』先賢子女総讃論)

劉備成都劉璋を包囲していた時のこと。



朱叔賢という督郵が劉備側への逃亡を謀ったため、朱叔賢の妻の張氏(名前は昭儀)もその罪に連座した。





その当時の決まりだったのか劉璋の裁量だったのかははっきりしないが、ともあれ夫の罪に対する罰として彼女は兵士の妻にされることとなった。




しかし彼女はその兵士に手籠めにされる前に自殺した。



軍中では彼女のために嘆き悲しまない者はいなかった、とのことである。






おそらく、当時の女性は夫が罪を犯したり、落城して捕獲されたりすればこういった目に遭うことが少なくなかったことだろうから、この件も劉璋だけが特別ムゴイということではないのだろう。




城中に何人も儒者や名士と呼ばれるような人々を抱えていたはずの陣営でさえもこういった事例が出てくるというのは、この時代の闇なのか、それとも戦乱の時代そのものの闇なのか。