『潜夫論』を読んでみよう−辺議篇その2

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夫仁者恕己以及人、智者講功而處事。今公卿内不傷士民滅沒之痛、外不慮久兵之禍、各懐一切、所脱避前、苟云不當動兵、而不復知引帝王之綱維、原禍變之所終也。
易制禦寇、詩美薄伐、自古有戰、非乃今也。傳曰「天生五材、民並用之、廢一不可、誰能去兵?兵所以威不軌、而昭文徳也。聖人所以興、亂人所以廢。」齊桓・晉文・宋襄、衰世諸侯、猶恥天下有相滅而己不能救、況皇天所命四海主乎?晉楚大夫、小國之臣、猶恥己之身而有相侵、況天子三公典世任者乎?公劉仁徳、廣被行葦、況含血之人、己同類乎?一人吁嗟、王道為虧、況滅沒之民百萬乎?書曰「天子作民父母。」父母之於子也、豈可坐觀其為寇賊之所屠剝、立視其為狗豕之所啖食乎?
(『潜夫論』辺議第二十三)


仁愛の人というのは自分自身が望むことを人に及ぼし、知恵者は相談して事に当たるものだ。



しかし今、宰相や大臣たちは民や兵士が命を落とすことに心を痛めもせず、長らく戦争が終わらないことを考慮するでもなく、かりそめに目の前のことから逃げようと「兵を動かすべきではない」などと言うばかりで、帝王の大綱やこの禍が行き着くところを突き詰めようとはしないのである。



易経』では守戦を良しとし、『詩経』では討伐を賞賛している。今に限ったことではなく、昔から反乱の戦はあったのである。




『左伝』では「天が五つの武器を生み、民がみなそれを使っている。どうして一気に廃止することができようか。武器は秩序を乱す者を威圧して徳を明らかにするものであり、聖人はそれによって興り、ろくでもない者はそれによって滅びるのだ」と言っている。




斉の桓公、晋の文公、宋の襄公ら、周末の諸侯でさえ、天下に滅亡する国があって救うことができないことを恥じていた。ましてや、天が命じた天子なら当然のことであろう。



晋や楚、小国の臣下でさえも侵略があることに対し自分自身を恥じていた。ましてや、天子や宰相たちなら当然のことであろう。



仁徳の人公劉は歩く時に草でさえも踏まないようにしていた。ましてや、同じ人間のことなら当然のことであろう。



一人が嘆いただけでも王道というのは傷がつくという。ましてや、百万の命に危害が及んでいるのだから当然のことであろう。




書経』では「天子は民の父母」と言っている。父母と子の関係であったら、どうして賊によってむごい目に遭うのを座視し、遺体が犬や豚に食われてしまうのを手をこまねいて見ていられようか?



王符先生は古代の聖人から春秋時代の諸侯までを引き合いに出し、現代に行われた棄民がいかに非人道的であるかを説き、しまいには今の王朝は失格であると言うも同然のところまで踏み込んでいる。



これはかなりの危険球である。いや、すでにデッドボールかもしれない。