五月五日に生まれて

王鳳以五月五日生、其父欲不舉、曰俗諺舉五日子、長及戸則自害、不則害其父母。
其叔父曰、昔田文以此日生、其父嬰敕其母曰勿舉。其母竊舉之、後為孟嘗君、號其母為薛公大家。以古事推之、非不祥也。遂舉之。
(『西京雑記』巻二)


前漢成帝の時に事実上政治の実権を握った大将軍王鳳。
彼は孟嘗君と同じだったという話。



彼は5月5日に生まれたが、父(王禁)は「5日生まれの子供は戸の高さまで成長すると自分を害するか、さもなくば父母を害することになる」という俗説があったので育てるかどうか迷った。

しかし叔父が「昔、斉の田文も同じ日に生まれて父は同じこと考えたけど孟嘗君になったで」と言ったので、父王禁は彼を育てることにしたという。


初、田嬰有子四十餘人。其賤妾有子名文、文以五月五日生。
嬰告其母曰「勿舉也。」其母竊舉生之。及長、其母因兄弟而見其子文於田嬰。田嬰怒其母曰「吾令若去此子而敢生之、何也?」文頓首、因曰「君所以不舉五月子者、何故?」嬰曰「五月子者、長與戸齊、將不利其父母。」文曰「人生受命於天乎?將受命於戸邪?」嬰默然。文曰「必受命於天、君何憂焉。必受命於戸、則可高其戸耳、誰能至者!」嬰曰「子休矣。」
(『史記』巻七十五、孟嘗君列伝)

孟嘗君はこの件について自分で父を言い負かしているのが面白い。


「人は天から命を受けるんでっか?それとも戸より受けるんでっか?天から受けるっちゅーならそんな言い伝え気にすることあらへん。
 もしホンマに戸より受けるっちゅーなら、戸を高くして身長が戸の高さに追いつくことがないようにすればええんちゃいますのん?」


孟嘗君が立派に論破してからかなり経つが、まだまだ世間では「五月五日生まれ不祥説」は根強かったことが窺える。