『史記』項羽本紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180817/1534431728)の続き。





廣陵人召平於是為陳王徇廣陵、未能下。聞陳王敗走、秦兵又且至、乃渡江矯陳王命、拜梁為楚王上柱國、曰「江東已定、急引兵西撃秦。」項梁乃以八千人渡江而西。
聞陳嬰已下東陽、使使欲與連和倶西。
陳嬰者、故東陽令史、居縣中、素信謹、稱為長者。東陽少年殺其令、相聚數千人、欲置長、無適用、乃請陳嬰。嬰謝不能、遂彊立嬰為長、縣中從者得二萬人。少年欲立嬰便為王、異軍蒼頭特起。陳嬰母謂嬰曰「自我為汝家婦、未嘗聞汝先古之有貴者。今暴得大名、不祥。不如有所屬、事成猶得封侯、事敗易以亡、非世所指名也。」嬰乃不敢為王。謂其軍吏曰「項氏世世將家、有名於楚。今欲舉大事、將非其人、不可。我倚名族、亡秦必矣。」於是衆從其言、以兵屬項梁。
項梁渡淮、黥布・蒲將軍亦以兵屬焉。凡六七萬人、軍下邳。
(『史記』巻七、項羽本紀)

項梁は陳勝の使者召平によって「上柱国」になった。楚における宰相のような官位であるらしい。なお召平が勝手に任官したものである。




項梁らは長江を渡って東陽の陳嬰と合流。陳嬰は当時の項梁を超える2万人を従えていたらしいが、敢えて王を名乗らず項梁の傘下に入ったという。



後に自ら覇王を名乗る人物と対比するために敢えてここで王にならなかったエピソードが挿入されているのかもしれない。





更に淮水を渡った項梁は、黥布(英布)らも傘下とし、最終的には6、7万人を率いるようになった。


陳勝之起也、(英)布迺見番君、與其衆叛秦、聚兵數千人。番君以其女妻之。
(『史記』巻九十一、黥布列伝)


英布も数千人集めていたそうなので、陳嬰が加わる前の項梁と同等の兵力があったのかもしれない。





なお、陳嬰は項羽が破れると劉邦に帰順して列侯となり、漢における楚王(劉交)の丞相になっている。



項羽に付いていた割には待遇がいいので、もしかすると項羽が生きていた頃から劉邦に好意的な立場だったのかもしれない。想像だが。