消したい過去

杜林字伯山、扶風茂陵人也。父鄴、成哀間為涼州刺史。林少好學沈深、家既多書、又外氏張竦父子喜文采、林從竦受學、博洽多聞、時稱通儒。
初為郡吏、王莽敗、盜賊起、林與弟成及同郡范逡・孟冀等、将細弱俱客河西。
(『後漢書』杜林伝)

後漢の初め、光武帝に仕えて大司徒司直や大司空になった杜林。
何故か『後漢書』に明記されていないが、『漢書』芸文志によれば「杜林蒼頡訓纂一篇」「杜林蒼頡故一篇」といった文字学の大家でもある。

さて、この杜林さん、『後漢書』では王莽時代には郡吏でしかなかったようにしか読めないが、これが実は少々怪しい。

九月甲申、莽立載行視、親舉築三下。司徒王尋・大司空王邑持節、及侍中常侍執法杜林等數十人将作。・・・
(『漢書』王莽伝下)

王莽の新王朝も末の地皇元年、四方の反乱に悩む王莽は太廟を建てて祖先の神霊にすがろうとし、太廟建設に取り掛かった。

ここに「侍中常侍執法杜林」なる人物が現れるのだ。


もちろん、後漢の大司空杜林とは別人の可能性も無くは無い。
しかし、彼は『漢書』列伝にも名を連ねる名臣張敞、杜鄴の血を引き、更に杜鄴は外戚王氏恩顧でもあるサラブレッドである。
その上、張敞の孫の張竦は王莽の元で出世している。
父杜鄴が死んだ哀帝末年から王莽末年頃までの20年前後もの間、杜林だけが郡吏から出世しないでいたというのは少々考えにくい。
「侍中常侍執法」(執法とは御史を新になって改名したもの。おそらく漢における侍御史に当たるのだろう)のようなエリートコースを歩んでいた可能性の方が高い。

なお、『後漢書』によれば後の大司空杜林は河西に逃げ、隗囂の元で「持書」=侍御史になったとされている。
もし地皇元年以降に王莽に仕えていた侍中常侍執法杜林が逃げてきたのだとすれば、ちょうど王莽時代と同等の地位を与えられたことになる。


つまり、『後漢書』杜林伝は彼の王莽時代の経歴が抜けている可能性があるということだ。
単なる誤りではなく、おそらくは王莽に仕えてエリートコースを歩んでいたという「汚点」を、意図的に隠蔽したのだろう。