ひとこと+2

先日の後漢末三互法についてだが、曹操孫権が影響を受けたと思われる中、出身のお陰でその影響はほぼ受けていない劉備は強いな・・・。ワイルドカード状態だ。



何しろ実質が無いものの方が多いとはいえ、予・荊・益州牧と司隷校尉を全部名乗っていた時期があるからな・・・。



それでも三互法的には問題無いという(名前の残る正妻呉氏は兗州人だから、やっぱり問題ない)。

ひとこと+1

昨日孫権について言ったけど、同じようなことは曹操にも言えるかもしれない。



少なくとも建安初期からの曹操の本拠はどう考えても予州だったと思う(兗州袁紹が攻めてきたときにすぐ大規模に離反する程度の定着度)んだが、曹操自身が予州の支配・監督権(州牧など)を直接に手に入れた様子が無い。



必要なのが郡県から独立していたらしい屯田組織だったから、みたいな理由もあったかもしれないが、やはり「予州が本貫なので予州牧にはなれない」という原則を一応は適用している(もしかすると、「適用させられている」かもしれない)、という理由もあったんじゃないだろうか。

三互

初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。
【注】
三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拜平原相」是也。
(『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝)

昨日の話だが、後漢頃においては「姻族、および自分か姻族の州の人間は監視相手にはならない」という制度と、「三互法」と呼ばれる「自分または姻族の出身州(郡?)の官には就かない」という制度があったようだ(いつから始まったのか分からないが)。


情実による不正が横行するのを防ぐということだろう。




前者は多分「太守と刺史」のような監督・監察の関係を指すのだと思う。



後者は少なくとも自分の出身の長官にはならないという形では後漢末でもできる限り運用されていた形跡がある。たぶん、太守などの長官あるいは勅任官にだけ適用されたのだと思う。




「婚姻の家」というのが妻の家だけを指すのか、母の家も指すのか、ここだけだとわからないが、何にしてもこのような制度があるのであれば妻は極力同じ州・同じ郡とした方が仕官の上で合理的だったことになる。




というか、他州郡の家と婚姻すると、赴任できない場所が増えてしまうわけだ。これでは、赴任先を選び放題という家などでもなければ不利なことばかりである。


このころの官僚たちの経歴を見ると同郡出身同士の婚姻が連続することが多いのは、これも理由の一つなのだろう。

父の出身

そういえば昨日の記事なんだけど、雁門の人范隆の父とされる范方は雁門太守だったとされている。



ただ、一般にこのあたりの時代は自分の出身郡の太守にはならないのが普通だったらしい。



范隆の父とされる范方が雁門郡の人なら雁門太守になるのは(ありえないとまでは言えないが)可能性が低い。



范方は雁門郡の人じゃなかった、ってコト・・・?!





雁門郡の人だったのは范隆の本当の父・・・いやこれ以上は言わないでおこう。