異姓養子禁止令

馬忠字徳信、巴西閬中人也。少養外家、姓狐、名篤、後乃復姓、改名忠。
(『三国志』巻四十三、馬忠伝)


蜀漢馬忠はもともとは狐氏の養子となっていたという。つまり生まれた時点では馬氏だったが、「狐篤」「狐忠」と名乗っていた時期があったのである。


衛繼字子業、漢嘉嚴道人也。兄弟五人。繼父為縣功曹。繼為兒時、與兄弟隨父游戲庭寺中、縣長蜀郡成都張君無子、數命功曹呼其子省弄、甚憐愛之。張因言宴之間、語功曹欲乞繼、功曹即許之、遂養為子。繼敏達夙成、學識通博、進仕州郡、歴職清顯。而其餘兄弟四人、各無堪當世者、父恆言己之將衰、張明府將盛也。時法禁以異姓為後、故復為衛氏。屢遷拜奉車都尉・大尚書、忠篤信厚、為衆所敬。鍾會之亂、遇害成都
(『三国志』巻四十五、楊戯伝、季漢輔臣贊、注引『益部耆旧雑記』)


この衛継の話からすると、蜀漢ではある時期から異姓養子を禁止して旧姓に戻すという措置が行われていたらしい。


これによって衛継は養子先の張氏から衛氏に戻したという。




馬忠もこの衛継と同じ異姓養子禁止令によって狐氏から馬氏に戻すことになったのではなかろうか。




中原の方では異姓養子が皇帝と呼ばれていたことを考えると、この禁令はなかなか興味深い。魏の風紀紊乱を批判し蜀漢の道徳意識を強調するような意図があったのかもしれない。