陳勝の墓守

陳勝雖已死、其所置遣侯王將相竟亡秦、由渉首事也。高祖時為陳渉置守冢三十家碭、至今血食。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

(高祖十二年)十二月、詔曰「秦皇帝・楚隠王・魏安釐王・齊愍王・趙悼襄王皆絶亡後。其與秦始皇帝守冢二十家、楚・魏・齊各十家、趙及魏公子亡忌各五家、令視其冢、復亡與它事。」
(『漢書』巻一下、高帝紀下、高祖十二年)

高祖劉邦陳勝(陳渉、楚隠王)のために「守冢」(墓守)30家を置いたという話と、10家を置いたという話があるのか・・・。



最初は30家だったが後から10家に変えたのかもしれないし、楚をよく思わない関中向けには10家と言っておいて、実際には30家を置いていた、みたいなことなのかもしれないし、単にどちらかに間違いがあるだけなのかもしれない。



だが、高祖自身のルーツ的には始皇帝より楚の方に肩入れしそうなものなので、楚王陳勝始皇帝より多くの墓守を置いていたというのも一定の説得力があるように思う。