『漢書』文帝紀を読んでみよう:その17

その16(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171022/1508599003)の続き。




六年冬、匈奴三萬騎入上郡、三萬騎入雲中。
以中大夫令免為車騎將軍屯飛狐、故楚相蘇意為將軍屯句注、將軍張武屯北地、河内太守周亞夫為將軍次細柳、宗正劉禮為將軍次霸上、祝茲侯徐窅為將軍次棘門、以備胡。
夏四月、大旱、蝗。
令諸侯無入貢、弛山澤、減諸服御、損郎吏員、發倉庾以振民、民得賣爵。
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝後6年。



匈奴とは和親したはずだが匈奴が侵入し、漢も緊急動員をかける。


文帝之後六年、匈奴大入邊。
乃以宗正劉禮為將軍、軍霸上。祝茲侯徐窅為將軍、軍棘門。以河内守(周)亞夫為將軍、軍細柳。以備胡。
上自勞軍。至霸上及棘門軍、直馳入、將以下騎送迎。
已而之細柳軍、軍士吏被甲、鋭兵刃、彀弓弩、持満。天子先驅至、不得入。先驅曰「天子且至!」軍門都尉曰「將軍令曰『軍中聞將軍令、不聞天子之詔』。」居無何、上至、又不得入。於是上乃使使持節詔將軍「吾欲入勞軍。」亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏謂從屬車騎曰「將軍約、軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營、將軍亞夫持兵揖曰「介冑之士不拜、請以軍禮見。」天子為動、改容式車。使人稱謝「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門、羣臣皆驚。文帝曰「嗟乎、此真將軍矣!曩者霸上・棘門軍、若兒戲耳、其將固可襲而虜也。至於亞夫、可得而犯邪!」稱善者久之。
月餘、三軍皆罷。乃拜亞夫為中尉。
(『史記』巻五十七、絳侯周勃世家)


この時に将軍となった周勃の息子周亜夫。彼は皇帝が直接軍を慰労に来るという時でも軍内の命令を優先させたという。つまりそれだけ軍の規律、命令系統を守っていたということであり、文帝はそれを評価して彼を取り立てたということだ。



彼がその後どういう活躍をするかについては知っている人の方が多いくらいだろうから、ここでは書かないでおく。



後六年冬、匈奴三萬人入上郡、三萬人入雲中。
以中大夫令勉為車騎將軍、軍飛狐。故楚相蘇意為將軍、軍句注。將軍張武屯北地。河内守周亞夫為將軍、居細柳。宗正劉禮為將軍、居霸上。祝茲侯軍棘門。以備胡。
數月、胡人去、亦罷。
天下旱、蝗。
帝加惠、令諸侯毋入貢、弛山澤、減諸服御狗馬、損郎吏員、發倉庾以振貧民、民得賣爵。
孝文帝從代來、即位二十三年、宮室苑囿狗馬服御無所筯益、有不便、輒弛以利民。
嘗欲作露臺、召匠計之、直百金。上曰「百金中民十家之産、吾奉先帝宮室、常恐羞之、何以臺為!」
上常衣綈衣、所幸慎夫人、令衣不得曳地、幃帳不得文繍、以示敦朴、為天下先。
治霸陵皆以瓦器、不得以金銀銅錫為飾、不治墳、欲為省、毋煩民。
南越王尉佗自立為武帝、然上召貴尉佗兄弟、以徳報之、佗遂去帝稱臣。
匈奴和親、匈奴背約入盜、然令邊備守、不發兵深入、惡煩苦百姓。
呉王詐病不朝、就賜几杖。
羣臣如袁盎等稱説雖切、常假借用之。
羣臣如張武等受賂遺金錢、覺、上乃發御府金錢賜之、以愧其心、弗下吏。
專務以徳化民、是以海内殷富、興於禮義。
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』孝文本紀では文帝の名君伝説的なエピソードが挿入される。



唐突な感じを受けるが、実のところその次も含めて読むことでこの話の意味合いが理解できるようになっている。




想像がついた人も多いかもしれないが、そのあたりは次回で。