趙とYシャツと項羽

令陳人武臣・張耳・陳餘徇趙地、令汝陰人訒宗徇九江郡。・・・(中略)・・・
武臣到邯鄲、自立為趙王、陳餘為大將軍、張耳・召騷為左右丞相。
陳王怒、捕繫武臣等家室、欲誅之。柱國曰「秦未亡而誅趙王將相家屬、此生一秦也。不如因而立之。」陳王乃遣使者賀趙、而徙繫武臣等家屬宮中、而封耳子張敖為成都君、趣趙兵亟入關。
趙王將相相與謀曰「王王趙、非楚意也。楚已誅秦、必加兵於趙。計莫如毋西兵、使使北徇燕地以自廣也。趙南據大河、北有燕・代、楚雖勝秦、不敢制趙。若楚不勝秦、必重趙。趙乘秦之獘、可以得志於天下。」趙王以為然、因不西兵、而遣故上谷卒史韓廣將兵北徇燕地。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)


秦末に陳勝(陳渉)が蜂起し楚王となると、彼は各地へ人を派遣して反秦勢力の拡大を狙った。




そこで趙に派遣されたのが武臣、張耳、陳余であった。





彼らは趙に着くや楚の意向に反して自立し、武臣が自ら王となるのだった。




その武臣、張耳、陳余らはこう考えたという。


「もし楚が秦を討ち果たしたら、楚の意に反したわれわれ趙は楚に攻撃されることになるだろう。楚王は趙に秦を攻めろと命じているが、その通りにはせずに黄河以北を平定して地盤を固めておいた方がいい。そうすれば楚が勝ってもこちらをうかつに攻撃できないだろう。逆に、楚が秦に勝てなければ、楚も趙のことを重んじないわけにはいかないだろう。そうして秦の側に疲弊が見えたら、すかさず趙が秦を討ってしまえば趙の天下が見えてくる」



趙は楚(陳勝)から分派したが、完全に別行動を取る独立勢力となったようだ。



楚を裏切る形で独立してるため、楚の側には趙に対し含むところのある人間も少なくなかったのではなかろうか。





項羽の時代(といってもそんなに時間経ってない)の楚も基盤には陳勝の楚も含まれていると言っていいだろう。


そうなると、楚にとっては項梁死亡の一因となった斉も、早々と離反した趙も、同じくらい戦犯である。




戦犯斉との関係改善を図った宋義を殺した項羽は、もう一つの戦犯である趙に接近することとなったと言えるのかもしれない。


戦犯と仲良くしたという意味では、宋義も項羽も同じ穴のなんとやらではないか。