斉と楚とYシャツと宋義

項梁既追章邯、章邯兵益盛、項梁使使告趙・齊、發兵共擊章邯。
田榮曰「使楚殺田假、趙殺田角・田輭、迺肯出兵。」楚懷王曰「田假與國之王、窮而歸我、殺之不義。」趙亦不殺田角・田輭以市於齊。齊曰「蝮螫手則斬手、螫足則斬足。何者?為害於身也。今田 假・田角・田輭於楚・趙、非直手足戚也、何故不殺?且秦復得志於天下、則齮齕用事者墳墓矣。」
楚・趙不聽、齊亦怒、終不肯出兵。章邯果敗殺項梁、破楚兵、楚兵東走、而章邯渡河圍趙於鉅鹿。項羽往救趙、由此怨田榮。
(『史記』巻九十四、田儋列伝)

陳勝蜂起後の秦末、斉では斉の王族出身の田儋がいち早く蜂起し、斉王を名乗った。



しかし彼は秦の章邯に敗れて戦死してしまう。



そうしたところ斉では元の王の一族というより由緒正しい王を立てたため、田儋の近親である田栄は怒って新たに立った王の田仮やその宰相らを討って追い出してしまった。




田仮は楚へ、宰相田角、将軍田間は趙へ逃げていたが、章邯が今度は楚や趙を攻撃し始めると、田栄は援軍の条件として田仮らを殺すことを求めたのだった。



しかし楚の懐王らはそれを拒否したため、田栄は援軍を送らず、結果項梁が敗死した。





だがその一方で、かの楚の上将軍宋義は斉と繋がっていると言われた。


時期的には田栄が援軍を拒み項梁が敗死して以降である。





宋義が繋がっていた斉は田栄らの勢力のことなのだろうか。

それとも田仮側の残党か何かなのだろうか。




前者だとすれば、宋義は斉と険悪となった項梁時代を反省して田栄との関係改善に努めていたと解釈できる。


後者だとすれば、宋義は反田栄勢力を援助し、田栄勢力に反撃して斉における楚の影響力拡大を企んでいたと解釈できる。



いずれにしても、楚の旧六国における覇権確立と打倒秦軍のために斉との連携を密にしていたと言えるだろう。