『漢書』韋玄成伝その9

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110615/1308063950の続き。

元帝崩、衡奏言「前以上體不平、故復諸所罷祠、卒不蒙福。案衛思后・戻太子・戻后園、親未盡。孝惠・孝景廟親盡、宜毀。及太上皇・孝文・孝昭太后・昭靈后・昭哀后・武哀王祠、請悉罷、勿奉。」奏可。
初、高后時患臣下妄非議先帝宗廟寢園官、故定著令、敢有擅議者棄市。至元帝改制、蠲除此令。成帝時以無繼嗣、河平元年復復太上皇寢廟園、世世奉祠。昭靈后・武哀王・昭哀后并食於太上寢廟如故、又復擅議宗廟之命。

元帝崩御すると、匡衡は上奏した。
「以前、元帝は具合が良くならないことから廃止した祭祀を復活しましたが、結局は福を得ることはできませんでした。考えてみるに、衛思后・戻太子・戻后の陵墓はまだ世代が廃止の限度に達していないので廃止する必要はありません。恵帝・景帝廟は限度に達したので廃止すべきです。また太上皇・孝文・孝昭太后・昭霊后・昭哀后・武哀王の祭祀は全て廃止すべきです」
この上奏は裁可された。

かつて、呂后は臣下がみだりに先帝の宗廟や陵墓の官について非難したり論争したりするのを嫌がり、それらについて勝手に議論する者は死罪という制度を作ったが、元帝の時代にこの制度を廃止した。
成帝の時、世継ぎができないことを理由に河平元年に太上皇の廟、陵墓、正殿を復活し、また昭霊后・武哀王・昭哀后は太上皇の陵墓、正殿で以前のように合祀することとし、更に宗廟について勝手に議論することを禁ずる制度を復活した。


結局元帝はコロッと死んでしまった。
すかさず匡衡は反撃。「先帝のタタリとか関係ないんじゃん!」とばかりに韋玄成・匡衡路線の復活である。ドヤ顔が目に浮かぶ。


話は変わって呂后の時代。呂后は宗廟などの官について議論することを禁止したのだという。「勝手に減らしたり変えたりしてはならん」ということらしい。
多分、天子廟が8つも9つも立っていても元帝の時まで議論されなかったのはこの法令が理由なのだろう。
皇帝の側が命じない限り、天子の廟制については議論できなかったのだ。

成帝は元帝ほど改革に熱心ではなかった。ていうかむしろ逆であったようだ。
自分に後継ぎが出来ないことに悩むと太上皇の陵墓等を復活し、更に呂后時代の禁止令を復活したのだった。
儒者たちの戦いは続く。