昼ドラ

(趙)充國乞骸骨、賜安車駟馬・黄金六十斤、罷就第。朝庭每有四夷大議、常與參兵謀、問籌策焉。年八十六、甘露二年薨、諡曰壯侯。
傳子至孫欽、欽尚敬武公主。主亡子、主教欽良人習詐有身、名它人子。欽薨、子岑嗣侯、習為太夫人。岑父母求錢財亡已、忿恨相告。岑坐非子免、國除。
(『漢書』巻六十九、趙充国伝)


前漢の名将、趙充国。「百聞は一見にしかず」と発言したことで有名(俺の中では)。


彼が薨去すると彼の列侯位は子孫に継承された。
そして彼の孫、趙欽は皇帝の娘、敬武公主を娶った。
しかし敬武公主に子が産まれず、公主は趙欽に対し妾の習なる女性に妊娠したと偽って他人の子を自分の子とするように教唆した。
おそらく、趙欽には公主との間以外にも子が無く、断絶の危機だったのだろう。
この時代の列侯は特例でなければ息子以外に継がせることが許されないという厳しい継承制度であったため、当主趙欽に男子がいないまま薨去したらいきなり廃絶になってしまうのである。


そしてこうして「生まれた」趙岑が趙欽の後継ぎとなり、習はその趙岑の母ということになった。
が、彼の本当の父母は「このことバラされたくなかったらスイス銀行に100万ドル振り込め」などと要求し、ついにはお互いにこの件を告訴しあうという泥合戦に発展。

かくして趙岑の秘密は露見、彼は趙欽の実子ではなかったことを理由に侯位を剥奪されたのであった。



なんだこの昼ドラ展開。