陸遜の甥

既不聽許、而(陸)遜外生顧譚・顧承・姚信、並以親附太子、枉見流徙。太子太傅吾粲坐數與遜交書、下獄死。(孫)權累遣中使責讓遜、遜憤恚致卒、時年六十三、家無餘財。
(『三国志陸遜伝)

陸遜が丞相のまま流罪になってから丞相のまま問責されて死んだ」という誤解が生まれる元になった*1有名な一節。


ここに出ている「(陸)遜外生」つまり甥(姓の違う甥)の顧譚・顧承は少し前の記事を参照。当時の呉のサラブレッドである。二人ともこの配流先で死亡。


もう一人の姚信だが、この人は詳しいことはよくわからないが、とりあえず配流されたようだが従兄弟と違い死ななかったらしい。


寶鼎二年七月、使守大匠薛珝營立寢堂、號曰清廟。十二月、遣守丞相孟仁・太常姚信等備官僚中軍步騎二千人、以靈輿法駕、東迎神於明陵。
(『三国志』孫和伝)

孫晧時代、姚信は太常に昇進していたことが分かる。太常といえば九卿筆頭なので、なかなかの出世と言えるだろう。

また、これはずいぶん前に記事でちらっと書いているが、姚信の『易経』注はのちの時代まで残ったらしい。

*1:もちろんこの文が悪いわけではないが。