曹氏と夏侯氏

群雄割拠の時代に挙兵した曹操にとって、まず頼りになるのは親族の存在であったろう。

親族といえば曹氏と夏侯氏が思いつくが、この二家は、少なくとも当初はその役割が大きく違っていたと言える。

曹氏は曹操が挙兵した段階で、三公、尚書令や太守などの高官を多数輩出しており、すでに権門の端くれと言ってよい状態であった。
霊帝の皇后宋氏と縁続きになっていたことも注意すべきである。
曹洪は有り余る財力で曹操を支え、曹仁は独自に兵を集めて曹操に合流した。こういうことが出来る勢力があったのである。
曹操にとっては心強い一族である一方で、自分に取って代わろうとすることや自分の命令に忠実でない可能性など、同族だからこその苦労もあったことだろう。
若い世代の曹休を自分の元で育てたのも、自分を主とし従順な存在になるように仕込んだということに違いない。


一方で夏侯氏はというと、曹操の元で活躍した夏侯惇夏侯淵はその父、祖父の代の著名人が記録されていない。
これはおそらくはそれまでは仕官して栄達した者がいなかった家ということであり、仕官できるほどの教養も、当時の官界におけるコネも無かったということであろう。
曹嵩が夏侯氏の出身であったとすればコネは出来たことになるが、曹嵩と同世代はまだ官僚になれるだけの教養が無かったのかもしれない。
若い頃から師に付いて学んでいた夏侯惇は、曹嵩のお陰で多少羽振りがよくなったであろう夏侯氏で最初に官僚になれそうな人材だったと思われる。
そんな夏侯氏曹操の挙兵を助けられるのは、財力などではなく時には身を張った槍働きが第一であろう。
夏侯惇が早い段階で後方に退くと共に中央官界の端に位置できたのは彼には学問の素養があったから。
逆に夏侯淵が漢中の司令官になるのを疑問視されたり、「白地将軍」呼ばわりされたりしたのは、当時の夏侯氏の教養の無いイメージ、ある種の偏見が作用していたのではないだろうか。