皇と帝

青龍中、山陽公薨、漢主也。(王)肅上疏曰・・・且漢總帝皇之號、號曰皇帝。有別稱帝、無別稱皇、則皇是其差輕者也。故當高祖之時、土無二王、其父見在而使稱皇、明非二王之嫌也。況今以贈終、可使稱皇以配其諡。
(注)
孫盛曰化合神者曰皇、紱合天者曰帝。是故三皇創號、五帝次之。然則皇之為稱、妙於帝矣。肅謂為輕、不亦謬乎!
臣松之以為上古謂皇皇后帝、次言三・五、先皇後帝、誠如盛言。然漢氏諸帝、雖尊父為皇、其實則貴而無位、高而無民、比之於帝、得不謂之輕乎!魏因漢禮、名號無改。孝獻之崩、豈得遠考古義?肅之所云、蓋就漢制而為言耳。謂之為謬、乃是譏漢、非難肅也。

(『三国志』王粛伝)

「皇帝」という語について。

王粛は「漢の例では帝>皇だし、山陽公への諡号には「皇」だけ付けてやって「帝」は要らないんじゃないッスか?」と進言した。

これについて孫盛は「バッカ、皇と帝では皇>帝だろ常考。王粛は馬鹿か?」と非難。
更に裴松之は「皇>帝は当たり前だけど、漢では皇って号は高貴だけど実権は無かった。つまり王粛は漢の制度に基づいていただけ。皇>帝を知らない馬鹿だったのは漢の方」と言っている。


どっちが正しいかはともかく、漢において皇という号が「其實則貴而無位」という面を持っていたというのは重要な指摘ではないかと思う。

漢の高祖は父に「太上皇」という号を贈った。
漢の宣帝は父に「悼皇」という諡号を贈った。
漢の哀帝は実父に「恭皇」という諡号を贈った。

いずれも父には天子となった実績が無く、皇帝の父という高貴さはあっても、実権を握りうる地位には居なかったし居たこともなかった。
「帝」という号は天子そのもので、「皇」は皇帝にまつわる高貴な地位には与えられうるという認識だったのではないだろうか。