黄鬚

又(王)敦正晝寢、夢日環其城、驚起曰「此必黃鬚鮮卑奴來也」帝母荀氏、燕代人、帝狀類外氏、鬚黃、敦故謂帝云。(『晋書』明帝紀

晋の明帝の母は北辺の人で、明帝自身も異民族のような外見で「鬚黃」であったという。
少なくともこの頃、鮮卑の代名詞が「鬚黃」であったということのようだ。

魏の曹彰も「黄鬚児」と呼ばれていたが、これには多分実際にそういう髭だったという意味だけではなく、「鮮卑並の強さ」みたいな意味も込められていたのかも、などと言ってみる。