李広の道

かの司馬遷はあの李広の事を「桃李不言、下自成蹊」と評した。


頃之、家居數歳。(李)廣家與故潁陰侯孫屏野居藍田南山中射獵。嘗夜從一騎出、從人田閒飲。還至霸陵亭、霸陵尉醉、呵止廣。廣騎曰「故李將軍。」尉曰「今將軍尚不得夜行、何乃故也!」止廣宿亭下。居無何、匈奴入殺遼西太守、敗韓將軍、後韓將軍徙右北平。於是天子乃召拝廣為右北平太守。廣即請霸陵尉與倶、至軍而斬之。
(『史記』巻一百九、李将軍列伝)

そんな李広は、かつて夜間に覇陵の県尉に職質された事を根に持ったらしく、その後に辺境の太守に復帰するとその県尉を引き連れ、着任するや処刑してしまった。


おそらく軍中であれば太守の独断で処刑できるという事なのだろう。計画的犯行である*1





こういう人物が「もの言わずとも自然に道が出来る」と評されているのは興味深い。



李広に向かって延びる道は茨の道なのではなかろうか?




*1:漢書』では殺した後に皇帝に対し県尉殺害を自首している。