『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その32

その31の続き。


莽志方盛、以為四夷不足吞滅、專念稽古之事、復下書曰「伏念予之皇始祖考虞帝、受終文祖、在璇璣玉衡以齊七政、遂類于上帝、禋于六宗、望秩于山川、徧于羣神、巡狩五嶽、羣后四朝、敷奏以言、明試以功。予之受命即真、到于建國五年、已五載矣。陽九之阸既度、百六之會已過。歳在壽星、填在明堂、倉龍癸酉、徳在中宮。觀晉掌歳、龜策告從、其以此年二月建寅之節東巡狩、具禮儀調度。」
羣公奏請募吏民人馬布帛綿、又請内郡國十二買馬、發帛四十五萬匹、輸常安、前後毋相須。至者過半、莽下書曰「文母太后體不安、其且止待後。」
是歳、改十一公號、以「新」為「心」、後又改「心」為「信」。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽の志は盛んで、四方の異民族は誅滅するに足りぬ存在であるから古に倣うことに専念しようと考え、また命令を下した。



「思うに予の偉大な祖先虞舜は文祖より帝位を受け継ぎ、天文をよく調べて太陽と月と火・水・木・金・土の五星の運行を整え、上帝も同じように祭り、易の八卦を祭り、山や川を遠くより望んで順番に祭り、諸々の神々をまんべんなく祭り、五嶽を巡り、諸侯は四季ごとに朝廷へ集まり、各々進言して功績の有無を試した。
予は天命を受けて真・天子に即位し、始建国五年に至り、既に五年となる。陽の気が極まる危機は既に過ぎ、百六年の危険も過ぎ去った。この年は寿星に当たり、明堂に填星があり、太歳は癸酉に当たり、中宮を示している。晋の文公が太歳を観察したことに倣い、卜占の結果に従う。この年の二月に東を巡り回ることとするので、礼制や用意を整えよ」



公たちは官吏や民に人力、馬、絹や布や綿を募るよう求め、また十二の内郡に馬を買わせ、布四十五万匹を徴発して常安(長安)へ順次運ばせるよう求めた。
それが半分以上集まってから、王莽は命令を下した。「文母太后の体調がよろしくないので、しばらく延期とする」



この年、公たちの称号の「新」を「心」と改め、後にまた「心」を「信」と改めた。



王莽、自ら東方に顔見せ巡行を行おうとするの巻。



しかし多大な費用を要した準備は文母太后すなわち元后の健康不安によって中断するのだった。






「新」を「心」に、「心」を「信」にというのは、たとえば「嘉新公」であった劉歆を「嘉心公」とし、後にまた「嘉信公」とした、ということである。



たぶん音は同じ、または近いのだろうが、なぜこのように改めたのかははっきりわからない。ただ、なんとなく王莽らしいな、とは思う。