『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その33

その32の続き。


五年二月、文母皇太后崩、葬渭陵、與元帝合而溝絶之。立廟於長安、新室世世獻祭。元帝配食、坐於牀下。莽為太后服喪三年。
大司馬孔永乞骸骨、賜安車駟馬、以特進就朝位。同風侯逯並為大司馬。
是時、長安民聞莽欲都雒陽、不肯繕治室宅、或頗徹之。
莽曰「玄龍石文曰『定帝徳、國雒陽』。符命著明、敢不欽奉!以始建國八年、歳纏星紀、在雒陽之都。其謹繕脩常安之都、勿令壞敗。敢有犯者、輒以名聞、請其罪。」
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

  • 始建国五年(紀元13年)

始建国五年二月、文母皇太后(元后)が崩御し、渭陵に葬ったが、元帝と合葬したが溝で区別した。廟を長安に建て、新王朝は代々お供え物を献上し祭祀を行うこととした。元帝にも供え物をするが、台の下に置くこととした。
王莽は元后のために三年の喪に服することとした。



大司馬孔永が辞職を願い出たため、座れる馬車と四頭の馬を下賜し、特進の位として朝廷に参加させた。同風侯逯並を大司馬に任命した。



この時、長安では王莽が洛陽を首都にしようと考えていると聞き、家を修理しようとしなくなったり、ある者は家を解体してしまったりした。



王莽は言った。「玄竜石の文章に「皇帝の徳を定め、洛陽に都を置く」と書かれている。天からの命令がこのように明らかであるので、これを奉じないわけにはいられない。始建国八年は太歳が星紀に入っており、これは洛陽の都を示しているのだ。常安(長安)の都は謹んで修繕を行い、壊れたままにすることのないようにせよ。これに違反する者はその名を報告し、罪に問うように」


文母太后死す。すなわち、王莽の元々の権力の源泉とも言うべき元帝の王皇后、元后である。


自莽簒位後、知太后怨恨、求所以媚太后無不為、然愈不説。莽更漢家鄢貂、著黄貂、又改漢正朔伏臘日。太后令其官屬鄢貂、至漢家正臘日、獨與其左右相對飲酒食。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


王莽が皇帝になる頃になると、元后は王莽が漢王朝を滅ぼした事を怒っており、新王朝の制度に敢えて逆らって漢王朝の服装や暦に従うようになり、王莽のご機嫌取りにも喜ばなくなっていたという。


もっとも、完全に手遅れになってからの話であるが。



なお渭陵とは元后の夫、元帝の皇帝陵である。





あと、この時期の王莽が洛陽への遷都を考えていたと言う話はなかなか興味深い。