黄初三年、車駕至宛、以巿不豐樂、發怒收(楊)俊。
尚書僕射司馬宣王・常侍王象・荀緯請俊、叩頭流血、帝不許。俊曰「吾知罪矣。」遂自殺。眾冤痛之。
(『三国志』巻二十三、楊俊伝)
三国時代の魏の楊俊は文帝曹丕の不興を買い、死を賜ることが決定的となっていた。
そんな彼にゆかりがあった司馬懿、王象、荀緯が彼の助命嘆願を行ったが文帝は許さず、楊俊は自殺することとなった。
恩人楊俊を救えなかった王象はそのことを気に病むあまりほどなく病死してしまったそうだ。
荀勖文章敍録曰、(荀)緯字公高。少喜文學。建安中、召署軍謀掾、魏太子庶子、稍遷至散騎常侍、越騎校尉。年四十二、黄初四年卒。
(『三国志』巻二十一、王粲伝注引荀勖『文章敍録』)
で、実は荀緯も楊俊自殺の翌年には死亡しているらしい。
王象と同様に楊俊を救えなかったことが引き金になった死だったりして・・・?
万一そうだとしたら、楊俊の死は弁護者のうち2人まで死に追いやったことになる。
文帝の恐るべきコンボである。
残る一人の心に去来する想いはいかに。