陳羣、同郷人を死なせる

呉書曰、(孫)權遣立信都尉馮熙聘于蜀、弔(劉)備喪也。
熙字子柔、潁川人、馮異之後也。權之為車騎、熙歴東曹掾、使蜀還、為中大夫。
後使于魏、文帝問曰「呉王若欲脩宿好、宜當窅兵江關、縣旍巴蜀、而聞復遣脩好、必有變故。」熙曰「臣聞西使直報問、且以觀釁、非有謀也。」又曰「聞呉國比年災旱、人物彫損、以大夫之明、觀之何如?」熙對曰「呉王體量聰明、善於任使、賦政施役、毎事必咨、教養賓旅、親賢愛士、賞不擇怨仇、而罰必加有罪、臣下皆感恩懐徳、惟忠與義。帶甲百萬、穀帛如山、稻田沃野、民無饑歳、所謂金城湯池、彊富之國也。以臣觀之、輕重之分、未可量也。」
帝不悦、以陳羣與熙同郡、使羣誘之、啗以重利。熙不為迴。送至摩陂、欲困苦之。後又召還、未至、熙懼見迫不從、必危身辱命,乃引刀自刺。御者覺之、不得死。權聞之、垂涕曰「此與蘇武何異?」竟死於魏。
(『三国志』巻四十七、呉主伝注引『呉書』)


劉備が死んだ時、孫権は配下の立信都尉馮煕なる人物を弔問の使者に送った。


その後、孫権は魏の曹丕に対してもこの馮煕を使者に送った。




曹丕孫権が二心を抱いているのではないかと疑っているところであったのでこう尋ねた。

「呉王(孫権)はさぁ、蜀に対して武器を向けるべきなのにどうしてあいつらと外交してるわけ?俺を裏切るつもりなわけ?」


馮煕は答える。

「蜀へ使者送ったのは向こうからの使者への返礼したのと、隙を見計らおうという気持ちからですよ?」


曹丕は更に聞いた。

「呉ってさぁ、国は飢饉で苦しんでるっていうしショボイ人材しかいないっていうじゃん?君のような賢人の目から見てどうよ?」

まあぶっちゃけ意地の悪い質問であるが、馮煕はこのように答える。

「呉王は聡明だし独裁せず臣下とよく話し合うし人材を大事にするし恩賞や刑罰は公平だし、みんな呉王の徳に服していますよ。兵士は多く、物資もたくさんありますから、どこが最終的に勝つかわかったものじゃないですよ?」


これはつまり魏はそうじゃないから最後は負けるよね?っていう意味を込めているのだろう。


曹丕は腹を立て、馮煕の同郷人である陳羣に彼を利益で誘って寝返らせようとした。

自分を馬鹿にした馮煕と孫権のメンツをつぶせるし、同時に馮煕の弁舌を手に入れられるしいいことずくめじゃん、ということだろう。


しかしながら馮煕は陳羣の誘いに屈しない。

命令を果たせない陳羣は馮煕に圧力をかけ、一旦は呉に戻ろうとした馮煕を再度呼び戻させようとしたが、このまま拉致されては主君の命を辱めると考えた馮煕は自殺を図ったのだった。


それはかろうじて助かったらしいが、馮煕はついに呉に戻ることが出来ず、そのまま魏で死んだという。

魏には匈奴のような手術法がなかったために自殺の傷が治らなかったのではなかろうか。