山西出将

贊曰、秦漢已來、山東出相、山西出將。
秦將軍白起、郿人。王翦、頻陽人。
漢興、郁郅王圍・甘延壽、義渠公孫賀・傅介子、成紀李廣・李蔡、杜陵蘇建・蘇武、上邽上官桀・趙充國、襄武廉襃、狄道辛武賢・慶忌、皆以勇武顯聞。蘇・辛父子著節、此其可稱列者也、其餘不可勝數。何則?山西天水・隴西・安定・北地處勢迫近羌胡、民俗修習戰備、高上勇力鞍馬騎射。故秦詩曰「王于興師、修我甲兵、與子皆行。」其風聲氣俗自古而然、今之歌謠慷慨、風流猶存耳。
(『漢書』巻六十九、趙充国辛慶忌伝賛)

秦、前漢の時代、「山東からは宰相が出て、山西からは将軍が出る」と言われたそうだ。


秦の白起は郿(前漢は右扶風所属)、王翦は頻陽(左馮翊)。


漢では王囲や甘延壽は郁郅(北地郡)。
王囲は『漢書』芸文志によると射法の教本を作った将軍らしい。射撃が得意だったのだろう。
甘延壽は匈奴単于を殺した西域都護である。

公孫賀や傅介子は義渠(北地郡)。
公孫賀は武帝時代に将から丞相まで出世した人。
傅介子は楼蘭王を暗殺した刺客。

李廣・李蔡は成紀(天水郡)。
まあこの人たちは言うまでもないでしょう。

蘇建・蘇武親子は杜陵(京兆尹)。
蘇武と言えば匈奴に抑留された人である。

上官桀や趙充国は上邽(隴西郡)。
上官桀は李広利の大宛攻めで武功を挙げた人物で、一般には武帝死後に霍光と共に権力を握った男として知られている。
趙充国は「百聞は一見にしかず」とのたまった宣帝時代の老将軍。

廉襃は襄武(隴西郡)。
成帝頃の将で、廉頗の子孫とされている*1

辛武賢・辛慶忌親子は狄道(隴西郡)。
宣帝頃の将で趙充国とは敵対関係。彼ら隴西郡の辛氏が後に潁川郡に移住したのだという*2



中には首都圏の人もいるが、隴西、北地といった異民族の脅威に日々さらされている地の出身者に良将や勇士が多い、ということである。
まあ、前漢初期は首都圏でも匈奴が攻めてくる前線地帯だったので、首都圏もそういう尚武の気風がある地域の一部だったのかもしれない。

*1:後漢書』廉范伝。

*2:三国志』辛毗伝。