さかのぼり前漢情勢37

このままフェイドアウトすると自分も含めて誰もが思っていたhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100425/1272204469の続き。

漢の高祖が死んだ後、呂后が権力を握り、その親族呂氏が相国や諸侯王になっていった。

これについては、二つの段階を分けて考えるべきだろう。


まず第一の段階。呂后が恵帝やその子である少帝の皇太后として権力を握るのは漢の制度上ある意味では当然のことであり、誰にも遮りようも無いし不当な部分も無い。

漢の制度の元になった秦でも、太后は王の後見人、代理人として絶大な権力を握りうる存在だった。
また、前漢でも呂后があれだけ色々やらかしても、その後皇太后が置かれないとか皇太后から権力を奪おうとかいう話にはならなかった。
太后の制度は前漢においては政治制度上必要なものとして認識されていたのである。

それに対し、第二の段階、つまり呂氏が諸侯王や相国といった地位に就き、朝廷内外を事実上占拠してしまうことについては、制度上想定していたことではない。

太后稱制、議欲立諸呂為王、問右丞相王陵。王陵曰「高帝刑白馬盟曰『非劉氏而王、天下共撃之』。今王呂氏、非約也。」太后不説。問左丞相陳平・絳侯周勃。勃等對曰「高帝定天下、王子弟、今太后稱制、王昆弟諸呂、無所不可。」太后喜、罷朝。
(『史記』呂太后本紀)

劉氏以外を王としないことについては、かの有名な「非劉氏而王、天下共撃之」という高祖の盟約があった。呂后にしても、当時の丞相たちに諮問することから始めており、少なくとも独断で行ったことではないのだ。
このあと陳平・周勃らは王陵に対して「劉氏の天下を守り社稷を保つためだ」と言い訳している。つまり権力者呂后に逆らって地位や命を失うのを避け、反撃の機会を伺いつつも今は呂后に従おうということであろう。
だが、見方を変えると呂氏一族が手に負えなくなる寸前まで権力を握る過程には、陳平ら功臣たちの保身があったということでもある。

七年秋八月戊寅、孝惠帝崩。發喪、太后哭、泣不下。
留侯子張辟彊為侍中、年十五、謂丞相曰「太后獨有孝惠、今崩、哭不悲、君知其解乎?」丞相曰「何解?」辟彊曰「帝毋壯子、太后畏君等。君今請拜呂台・呂產・呂祿為將、將兵居南北軍、及諸呂皆入宮、居中用事、如此則太后心安、君等幸得脱禍矣。」丞相迺如辟彊計。太后説、其哭迺哀。呂氏權由此起。
(『史記』呂太后本紀)

呂氏が南北軍を掌握し、朝廷や宮殿内に入って呂后の周囲を固めて権力を独占していくことも、結局は陳平らの保身から来る事であった。
もし陳平らが率先して呂氏に権力や軍を与えるような進言をしなかったら、ここまで呂氏の権力が拡大することはなかったかもしれない。
しかし、そのような進言をして尻尾を振らなければ、功臣らを警戒する呂后は陳平ら大物功臣たちを皆殺しにしていただろうが。


陳平らの所業は自作自演とも日和見主義とも言えるし、呂后が死ぬまで待つしたたかな策略と言えない事も無い。
ただ、いずれにしてもこの後彼らに担がれる文帝が信頼を寄せられるような相手でないことは間違いなく、文帝即位以降の両者の間に流れる緊迫した空気も当然のことと言えるだろう。