さかのぼり前漢情勢34

まだ終わりじゃないhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100404/1270358748の続き。

漢の文帝の前四年、丞相灌嬰が死去して張蒼が丞相となった。
張蒼は秦で御史になっていたという超エリートであり、暦法や計算などにも明るいという有為の人材であった。

この時代、基本的に漢は大きな事業や戦争などは起こしていない。秦末から漢初にあった戦乱からの回復のためであると同時に、諸侯王と漢の力関係から言っても下手に動けないということでもあったのだろう。


代わりに、法制度や礼制の面では見直しの動きが起こっている。

夏、除祕祝、語在郊祀志。五月、除肉刑法、語在刑法志。
(『漢書』文帝紀、文帝前十三年)

文帝の仁君、明君ぶりを賞賛する際によく引き合いに出される肉刑廃止。

ただこれについては、「是後、外有輕刑之名、内實殺人。斬右止者又當死。斬左止者笞五百、當劓者笞三百、率多死(『漢書』刑法志)」とあるように、実は肉刑で済んでいた者を死に追いやるというものだったとの指摘がある。

しかしながら、当時においてはそのような制度になるのも仕方ない思想があったのかもしれない。

是時丞相絳侯周勃免就國、人有告勃謀反、逮繫長安獄治、卒亡事、復爵邑、故賈誼以此譏上。上深納其言、養臣下有節。是後大臣有罪、皆自殺、不受刑。
(『漢書』賈誼伝)

文帝の知恵袋賈誼は、周勃が謀反の嫌疑をかけられて獄に落ちたことについて文帝を非難した。どうやら、無実なのに逮捕したことではなく、逮捕して獄に繋ぐ前に高貴な者としての誇りを保たせてやるべきだったと非難したようである。
つまり、大臣たる者、嫌疑がかかったらその時点で自殺すべきだというのである。

肉刑についても、同じ発想なのではないだろうか。
肉体を失うという苦痛やその後の不便以上に、永遠にその罪の刻印が残るという恥辱、屈辱こそが問題なのであり、そんな恥辱を与えるくらいならひと思いに殺してしまう方が罪人にとっても慈悲になるはずだ、ということだ。
司馬遷が罪に落ちた時の悩みもそこにあった。腐刑という屈辱を受けるくらいなら自殺した方がマシ。しかし『史記』完成のために死ねないから敢えて屈辱を選んだ。
この時代の人々にとって、肉刑の恥辱は自分の死よりも辛いものだったのだ。
その意味では、文帝は当時の感覚で罪人の最後の名誉を守るような改革を行ったと言える。


また、当時の議論として、五行の徳をどう扱うかというのがあった。

(張蒼)為丞相十餘年、魯人公孫臣上書言漢土紱時、其符有黃龍當見。詔下其議張蒼、張蒼以為非是、罷之。其後黃龍見成紀、於是文帝召公孫臣以為博士、草土紱之暦制度、更元年。張丞相由此自絀、謝病稱老。蒼任人為中候、大為姦利、上以讓蒼、蒼遂病免。
(『史記』張丞相列伝)

丞相張蒼は、漢は秦と同じ水徳だと主張しており、それが公式となっていた。
しかし、漢は土徳と主張する者が現れ、証拠の発見により文帝も同調して張蒼の方が失脚したのであった。

ちなみにこの土徳説は賈誼の主張であった。

誼以為漢興二十餘年、天下和洽、宜當改正朔、易服色制度、定官名、興禮樂。乃草具其儀法、色上黃、數用五、為官名悉更、奏之。文帝謙讓未皇也。然諸法令所更定、及列侯就國、其說皆誼發之。
(『漢書』賈誼伝)

公孫臣なる人物がいきなり土徳説を主張し出したというよりは、もともと文帝が土徳説を支持しており、公孫臣はそれを上手く嗅ぎつけたということなのだろう。
場合によるとすべて文帝が仕組んだ出来レースだったかもしれない。

ともあれ、水徳説は秦と同じということで、秦に親近感の無い者にとっては心情的に受け入れがたいものだったと思われる。
生まれた時には秦が倒れていた世代にとっては、水徳を否定することは当然の流れだったのだろう。


このように、文帝の時流を読んだ抜け目無い改革は、先に述べたように多くが賈誼に影響されたものだった。
そのあたりは次回で。