さかのぼり前漢情勢25

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漢の武帝の太初年間の前は元封。ここからは元号ごとに六年間になっている。

この六年間は武帝にとって、いや漢王朝にとって一大イベントが開催された。
元号にもなっている「封」つまり封禅である。


まず、武帝は南越、東越を滅ぼし、南方の不服従民をすべて平らげることに成功した。

其來年冬、上議曰「古者先振兵釋旅、然後封禪」乃遂北巡朔方、勒兵十餘萬騎、還祭黃帝冢橋山,釋兵凉如。
(『漢書』郊祀志上)

武帝はまず匈奴に対して軍勢を連ねて威を示し、匈奴を威圧した。
どれだけ脅しになったかは不明だが、南越も滅んだことで漢は匈奴以外に敵がいなくなったこととなるので、匈奴からすれば憂慮すべき事態となったことは間違いないだろう。
と同時に、この示威行為自体が封禅の儀式の一部なのである。

それから武帝は封禅を実行に移した。
武帝黄帝の不死伝説に習い、封禅を挙行すれば不死になれるという説を信じたのだという。
しかしながら、その儀式のために集められた儒者はいずれも封禅について武帝を満足させることができず、いずれも退けられた。
当然だろう。武帝が望む封禅は不死者になること。儒者の得意分野ではない。

ちなみに、「元封」という年号は封禅の後に改元されてできたものである。


その後、武帝は一旦関中に戻ると、翌元封二年にはまた東方へ行幸し、代、河東、南郡と各地を回っている。
おそらく、封禅をして新たなステージに昇った自分を各地へ見せて回ることが権威付けのために必要だったのだろう。
そして、その間にも今度は朝鮮王を攻め滅ぼし、その地にも郡を置いた。

管仲曰「古者封泰山禪梁父者七十二家、而夷吾所記者十有二焉。昔無懷氏封泰山、禪云云。虙羲封泰山、禪云云。神農氏封泰山、禪云云。炎帝封泰山、禪云云。黃帝封泰山、禪亭亭。顓頊封泰山、禪云云。帝嚳封泰山、禪云云。堯封泰山、禪云云。舜封泰山、禪云云。禹封泰山、禪會稽。湯封泰山、禪云云。周成王封泰山、禪於社首。皆受命然後得封禪」
(『漢書』郊祀志上)

管仲によれば封禅とは古代の聖王だけが挙行できるものであるという。
逆に言えばそれを平和裏に挙行し得た武帝もまた聖王の仲間入りというわけであり、これによって漢王朝の天下統一は名実共に完成したのである。


となると、今度は聖王武帝の下に完全に統一された天下を統治することを考える番である。
そこで、各地を統治する太守を監視・統率する官が新設された。

監御史、秦官、掌監郡。漢省、丞相遣史分刺州、不常置。武帝元封五年初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。成帝綏和元年更名牧、秩二千石。哀帝建平二年復為刺史、元壽二年復為牧。
(『漢書』百官公卿表上)

それが部刺史である。一般に刺史と呼ばれる。
秦の監御史の流れを汲むものなので純粋な新設とは言えないのかもしれないが、皇帝の詔という金科玉条を手に郡を監察するという官が常置となったことで、漢の地方統治も新たなステージへと昇った。
つまり、太守は皇帝の派遣する部刺史の顔色を常に伺わなければいけないという、より中央集権的な体制へと移行していったのである。

こうして見ると、封禅と部刺史設置の後に太初の官名改称、制度変革があったのも偶然ではなく、すべて一つの流れの中にあったと考えた方がよさそうである。