見る



「密漁海岸」が5月放映か!見なくては。*1



でもこれ前段として「イタリア料理を食べに行こう」部分もやらないと話が進まないのでは。

*1:4月1日発表だがエイプリルフールではないらしい。

ひとこと

今ふと思っただけだし、ちゃんと前後関係とか調べてないんだけど、官渡直前に劉備が徐州で曹操に背いた時に曹操劉備をすぐ叩いているが、結局徐州の反乱を鎮圧してもなお兗州方面には袁紹側の兵が攻め寄せていて現地に駐屯する程昱は防戦もままならない状態になっていたようだ。



つまり曹操劉備を叩いたとは言っても徐州方面を完全に曹操側に戻せたわけではなく、おそらくは青州方面からの袁紹の攻勢をほとんどスルーしてしまう程度にしか徐州方面の影響力を保てていなかった、ということなのではないか。




まあ曹操が徐州に対してやったことを思えば、劉備がいようがいまいが反抗的で当然ではあるが。

はい出てくる過去

そういえば、王朗・王粛の出自である東海郡は曹操の殺戮行で被害を受けた地域の一つだな。



つまり司馬昭の正妻王氏は「曹氏の過去の所業に含むところがあったかもしれない一族」ということだ。



荀彧の子孫たちや王祥、鄧艾などもそうだろう。司馬炎の正妻楊氏も母が天水の出なのでその仲間かもしれない。



司馬氏政権というのはやはり「反曹氏」で団結した勢力だったのかもしれん。



曹氏はミミズのようにはい出てきた過去に復讐されて滅んだということになる。

曹植と曹彰

漢書曰「人有白(楊)脩與臨淄侯曹植飲醉共載、從司馬門出、謗訕鄢陵侯(曹)章。太祖聞之大怒、故遂收殺之、時年四十五矣。」
(『後漢書』列伝第四十四、楊修伝注引『続漢書』)


『続漢書』によれば、かの楊修が命を落とすことになった直接の原因は、「曹植と一緒に飲酒した後に曹彰を誹謗した」ことだったそうな。



曹植と懇意にしていたと思われる楊修が誹謗したのが曹丕ではなく曹彰だったというのは興味深い。




軍功がある曹彰曹丕ばかりではなく曹植の側からしても強力なライバルとして警戒されていた、ということなのかもしれないし、無骨者なので単純にウマが合わない、ということかもしれない。